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新型ウイルスの新たな震源地ブラジル

=極右ボルソナロ政権があおる社会分断=

2020年07月08日

新型ウイルス

客員主任研究員
田中 博

 「ORDEM E PROGRESSO(秩序と進歩)」―。豊かな森林の緑色と無尽蔵の鉱物資源の黄色。この2色をシンボルカラーにしたブラジル国旗には、こんな文字がポルトガル語で記されている。フランスの哲学者で実証主義を説いたオーギュスト・コントの言葉である。

20200710_02a.jpg ところが、南米最大の政治・経済大国では今、その「秩序」が失われ、社会が大混乱に見舞われている。引き金となったのは、新型コロナウイルスの爆発的な感染拡大だ。米ジョンズ・ホプキンス大学の集計によると、2020年7月7日現在、感染者数が約162万人、死者数は6万5000人に上り、ともに米国に次いで世界2番目である。感染拡大の勢いは止まらず、1日当たりの新規感染者数が4万人を超える日もあるなど、再拡大に転じた米国に匹敵。新型ウイルスの新たな震源地となってしまった。

 混乱をもたらした責任の多くは、極右で元軍人のボルソナロ大統領に帰せられる。歯に衣着せぬ言動で「ブラジルのトランプ(米大統領)」とも称されるボルソナロ氏は当初から「軽いインフルエンザか、ただの風邪と同じ」などと科学的裏付けもなく公言し、影響をひたすら過小評価してきた。「経済活動を制限するほうが打撃は大きい」というのが本音であり、感染症対策で厳しい措置を求めた保健相を2人相次いで更迭した。

 これに対して各州政府は、感染拡大の兆しが見え始めた3月下旬以降、独自の権限で都市封鎖(=ロックダウン)を導入。しかしその内実は、「貧困層を中心に日銭を稼ぐために働きに出た人が多かった。州政府もその現実を理解しているため、外出に欧州並みの厳しい罰則を課せられなかった」(現地在住の日本人商社員)というもの。このため、南半球が秋から冬に向かう季節要因も加わり、感染者数は急ピッチで増加。5月下旬には死者は5000人を超えたが、ボルソナロ氏は「それで?残念なことだ。でも私にどうしろというのか」「かわいそうだが、これが人生というものだ」などと、冷淡な姿勢を示したことで国民から猛反発を食らう。

 街頭で反ボルソナロのデモが繰り広げられる一方で、経済優先の主張を支持する大統領支持派もデモで対抗。ボルソナロ氏はマスク着用の義務を守らずにたびたび自らの支持者を激励、州政府によるロックダウンの解除を声高に訴えた。こうして国民の間だけでなく、連邦政府と州政府の対立も深まり、ボルソナロ氏が国家の分断をあおっているようにさえ見える。

 そもそも2018年の大統領選で無名に近かったボルソナロ氏が当選できたのは、13年間にも及んだ左派・労働者党(PT)政権の反動によるものだ。

 その1つが政権の腐敗。ブラジルでは2014年から政財界を巻き込んだ汚職事件にメスが入った。PTのルラ氏(2003〜2010年)、ルセフ氏(2011〜2016年)の2人の大統領が逮捕あるいは起訴され、ルセフ氏弾劾で大統領の任期を継いだ連立相手のテメル氏(2016〜2018年)まで逮捕されるなど、国を挙げての大スキャンダルに発展した。裏金の受け渡しにガソリンスタンドが使われたことから、一連の捜査はラバ・ジャット(=高速洗浄機)作戦と呼ばれた。

 もう1つが歴代政権の経済失政だ。ルラ政権は発足早々、貧困撲滅を掲げて低所得者向け現金給付プログラム「ボルサ・ファミリア」を導入、中間層の育成を目指した。当時は中国の需要拡大で資源価格が高騰。新興国ブームもあってブラジルには巨額の投資資金がなだれ込み、高成長を謳歌(おうか)した。しかし、中国の成長鈍化でブラジル経済も失速。2015、2016両年にはマイナス成長に落ち込み、その後も景気低迷にあえぐ。貧困層はむしろ拡大して治安も悪化、残されたのはバラマキ批判と巨額の財政負担だった。

 かくして、国民の怒りが沸点に達した真っただ中で実施された2018年の大統領選。連邦下院議員を長く務めたものの、泡沫候補扱いだったボルソナロ氏は怒りをうまく突いた。反腐敗と経済成長をスローガンに掲げて選挙戦に臨み、軍出身という経歴もプラスに働いた。20年以上にわたりブラジルで事業を営む日本人男性は「国民の中で軍事政権下(1964〜1985年)の悪い記憶は薄れている。むしろ、『軍の後ろ盾があるなら、そんなに悪いことをしないだろう』と考えた。悪化の一途をたどる治安回復への期待もあった」と語る。選挙戦では、襲撃されて重傷を負ったボルソナロ氏に同情票も集まり、決選投票の末に大統領のイスを勝ち取ったのだ。

 しかし、大統領就任から1年半でボルソナロ政権の二枚看板の1つ、反腐敗の公約は早くも崩れつつある。先述のラバ・ジャット作戦で担当判事として辣腕(らつわん)を振るったモロ法相・公安相(当時)が4月、警察人事に介入されたと大統領を非難し、辞表をたたきつけたのだ。同氏は、ボルソナロ氏が親族の汚職疑惑をめぐり警察庁長官を更迭して捜査妨害したと主張。大統領自身も捜査のターゲットになった。国民的人気の高かったモロ氏の離反はボルソナロ政権にとってダメージが大きく、大統領弾劾を求める声すら上がっている。

 もう1つの看板、経済成長もコロナ禍で風前の灯(ともしび)。連邦政府は4月、総事業費21兆円、名目GDP比で約15%に相当する思い切った緊急経済対策を打ち出したが、世界恐慌並みの危機を前にすれば効果は限定的。事実、国際通貨基金(IMF)が6月発表した世界経済見通し(WEO)では、2020年のブラジルの経済成長率はマイナス9.1%に落ち込む。

ブラジルの実質GDP成長率

20200710_01a.png(出所)世界銀行

 もっとも新型ウイルスがもたらす混乱はブラジルに限らない。感染拡大が予測されるのに経済活動の再開を急ぐのは、どの国にも「背に腹は変えられぬ」という事情があるからだ。ただしブラジルの場合、感染拡大最中の6月下旬に多くの州がロックダウン解除に向けて動き出したため、感染者数のさら なる増加が懸念される。7月7日にはボルソナロ氏自身の感染が判明したことで、当の本人がもたらしたブラジル社会の混乱に拍車がかかる可能性が指摘されている。経済再開の代償がどれほど高くつくか分からないが、その混乱が混沌(カオス)に陥らないよ う、国旗がうたう「秩序」を1日も早く回復してほしい。

田中 博

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