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 社外の人たちと有志の勉強会を発足することになり、先日、顔合わせの打ち合わせを行った。メンバー4人の所属企業はバラバラなので、昼休みに社内でちょこっと集まろうというわけにもいかず、休日にカフェに集合することになった。

 しかし、打ち合わせを始めてみると、カフェのテーブルが小さくて全員のパソコンを開くスペースがない。プロジェクターがないため、パソコンの画面をみんなに共有するにも手間がかかり、何かと不便だ。電源もないから、打ち合わせが長引いてくると、パソコンのバッテリーも心もとない。次の会合はゆったりしたスペースと電源を確保できる場所にしたいと切実に思った。

20171016_01.jpg(写真)筆者

 このような時、意外と使えるのが公共施設の集会所だ。例えば、東京都中央区は区民館など20カ所の集会施設を一般開放しており、手続きをすれば区民でなくても利用できる。定員15人の部屋が午後6時から9時までの3時間で1200円など、懐の寂しいサラリーマンにとってはうれしい料金設定だ。また、事前に予約すればスクリーンやマイクなどの機材も無料で貸し出してくれる。

 ただ、地域住民の趣味のサークルやボランティア団体などが定期利用しているケースも多いため、駅に近くて使い勝手の良い施設は1カ月先まで予約が埋まっていることも。急に使いたくなっても予約できないのが難点だ。

 企業に所属していると、仕事がらみの打ち合わせなら社内の会議室を利用したり、居室内のフリースペースで気軽に集まったりできるため、打ち合わせ場所があることのありがたみを忘れがちだ。しかし、一歩会社を離れると会議室を確保するだけでも一苦労なのだ。

 同じような悩みを抱える人が多いからか、最近は貸会議室を提供するサービスが増えてきた。中には自社が所有する会議室を提供するのでなく、「会議室を持つ企業や団体」と「利用したい人」をマッチングさせるサービスもある。

 マッチングサービスを提供する企業のサイトをのぞいて、試しに平日夜間の東京駅周辺で空いている会議室を検索してみると、47件もの候補が上がってきた。ホワイトボードやプロジェクターが常備されている会議室も多く、打ち合わせ場所として申し分ない。スマートフォンでリアルタイムの空き状況を検索し、その場で予約、決済まで完了させることができる。さらに、予約した人がスマホから部屋を開錠・施錠できる電子キーを発行することで、管理人室でカギの受け渡しを不要にする「スマートロック」という便利なサービスもある。

 また、利用料金が手ごろな場所が多く、中には1時間あたり500円の「ワンコイン会議室」もある。ちなみに、時間帯を朝に限れば1時間あたり100円で利用できる部屋もあり、カフェでコーヒーを頼むよりもずっと安い。

 フリーランスや副業といった「自由な働き方」が広まり、様々な背景を持つ人々が集まって企業の枠を超えて協働する機会も増えている。そんな時の打ち合わせ場所として、誰でもふらっと立ち寄れる貸会議室はぴったり。思いついた時に空いている貸会議室を予約して、すぐに打ち合わせできるのも利点だ。これからは企業の枠を超えた新しい取り組みやイノベーションは、貸会議室から生まれるかもしれない。

 だが企業は近くの貸会議室で面白い取り組みが生まれるのを、指をくわえて見ているだけで良いのだろうか。働き方改革によって充実するプライベートの時間で、資格取得のための勉強を始めたり、社外の人と情報交換会を開催したりする社員も増えてくるだろう。あるいは、趣味の活動に力を入れたい人もいるかもしれない。こうした社員に向けて、業務時間外は使われていない会議室を格安で提供することも考えられるのではないか。スマートロックを使えば、担当者を置かなくても出入りを管理することができるため、コストも低く抑えられる。

 社員の自由な時間のために使われていない会議室を提供し、そこから企業の枠を超えた新しい取り組みが生まれるとすれば、それはきっとめぐりめぐって、企業にとっても良い効果をもたらすだろう。

 成田空港を離陸したシベリア航空の直行便は、2時間足らずでロシア沿海地方の中心都市ウラジオストクの国際空港に着陸した。なるほど東京から最も近い「欧州」である。日本は明治維新直後、日本海を挟んで向き合うこの街と貿易を始め、1919年頃には6000人もの日本人が現地に居留していた。だが、幾多の戦争や動乱によって引き揚げを余儀なくされる。第二次大戦後の旧ソ連は、太平洋艦隊の基地である「軍都」ウラジオストクを「閉鎖都市」に指定。外国人はもちろん、市外の自国民でさえ立ち入りを禁止したため、この街は人々の記憶から消えてしまう。旧ソ連崩壊後の1992年にようやく開放され、今再び日本との関係を強め始めている。

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20171007_02.jpg黄金橋とウラジオストク港

 ウラジオストクという街の名は、ロシア語のヴラジ(支配する)+ヴォストーク(東)=「東方を征服せよ」が由来とされる。帝政ロシアは1860年にウラジオストクを建都し、極東の太平洋岸進出と不凍港の確保という宿願を果たした。ちなみにモスクワからウラジオストクまでは直線距離で6400キロを超え、東京からの6倍以上になる。

 もちろん、当時のロシアは極東に満足な港やドックを持っていない。このため、船舶の修理や燃料・水・食糧の補給は、長崎をはじめとする日本の港に依存した。江戸時代末期の1855年に締結された日露和親条約によって両国間では外交が始まり、明治維新から3年後の1871年にはウラジオストク~長崎が海底電信線で結ばれた。

20171007_03.jpg中心部にある中央広場と噴水通り

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 一方、明治政府も農産物などの輸出先として期待を懸け、1876年にはウラジオストクに日本国政府貿易事務所を開設した(1907年領事館、1909年総領事館に昇格)。今、旧総領事館は一等地の角にあり、「築101年」とは思えない美しさだ。ロシアは法律に基づいてきちんと保存し、地方裁判所として活用している。貿易事務所開設から2年後、北海道開拓使長官・黒田清隆(後の首相)らの使節団はウラジオストクで北海道物産展を開催。麦粉やサケ、シカ肉などが高い評価を受け、中でも「サッポロカ」と呼ばれたビールが人気だったという。メディアが発達する前の時代に日本の地方と海外を直接結ぶという大胆な発想は、人口減少に苦悩する現代の日本が学ぶべきだと思う。

20171007_05.jpg旧日本総領事館(現在は地方裁判所)

 1881年、ウラジオストク~長崎に蒸気船の定期航路が開かれ、日露貿易は一段と活発になる。また、シベリア鉄道の建設が始まると、日本から多数の出稼ぎ労働者が作業に従事した。1904年の完成後、ウラジオストクは鉄路でモスクワと結ばれ、日本との貿易も一層拡大した。一方、京都の西本願寺はウラジオストクで布教活動を始め、「浦潮本願寺」が日本人居留民の精神的な支柱となる。当時、この街の日本語表記には「浦潮斯徳」などの漢字が当てられた。1900年に居留民の人口は2000人を超え、市内では日本人の貿易会社や商店が繁盛し、「日本小学校」も開校する。

20171007_06.jpgモスクワまで9288㎞のキロポスト、今も6泊7日の長旅

 こうして日本人居留民は言語の厚い壁や冬の厳しい寒さを克服しながら、ウラジオストクで活躍していた。ところが1904年2月に様相が一変する。日露戦争の勃発である。居留民はパニックに陥り、大半が引き揚げ船で日本へ帰国を余儀なくされた。

20171007_07.jpg1904年全通したシベリア鉄道の終点・ウラジオストク駅

日本の貿易会社が入居していた建物 旧堀江商店(左)旧杉浦商店(右)


20171007_10.jpg旧日本小学校

20171007_11.jpg日露戦争前に築かれた要塞の跡

 翌1905年の日露戦争終結後、ウラジオストクの日本人社会は復活し、戦前にも増してビジネスを積極的に展開する。例えば、ウラジオストク~青森に定期船が就航すると、青森県の関係者は「青浦商会」を設立してリンゴを盛んに輸出した。明治人の起業家精神には脱帽するほかない。日本人居留民の人口も増え続け、ピークの1919年には6000人規模に達した。

 日本からは銀行も進出する。今も長崎市に本店を置く十八銀行はウラジオストク支店として「松田銀行部」を開設。後に、朝鮮銀行(日本債券信用銀行の前身→現あおぞら銀行)がこれを買収する。一方、横浜正金銀行(東京銀行の前身→現三菱東京UFJ銀行)は独自に支店を置く。各行は駐留日本兵から預金を受け入れたり、中国東北部・満州からの農産物輸出に資金を供給したりした。こうした銀行支店の重厚な造りは、戦前の日本版「産軍複合体」のパワーを今に伝える。

20171007_12.jpg十八銀行の支店「旧松田銀行部」

20171007_13.jpg旧朝鮮銀行支店

20171007_14.jpg旧横浜正金銀行(現在は博物館)

 第一次大戦中の1917年、ロシアではレーニンが主導する世界初の社会主義革命が起こり、ソビエト政権が誕生する。大混乱が続く中、ウラジオストクの商店で強盗が日本人を殺害する事件が発生。それを口実に日本は「シベリア出兵」に踏み切った。軍事干渉を強める日本に対し、共産主義ゲリラのパルチザンが激しく抵抗。日本は1922年撤兵し、居留民のウラジオストクから日本への引き揚げが続いた。

 結局、1937年までに総領事館職員などごく一部を除き、ウラジオストクから日本人の姿が消えた。第二次大戦後、旧ソ連軍は数十万人の日本人をシベリア各地に抑留する。市内の競技場「ディナモ・スタジアム」も、抑留者の強制労働によって建設されたものだ。

 日本人居留時代の面影を残す建物を取材していると、「声なき声」が聞こえてくる気がした。人間の本質とは何なのか?国家とは?自由とは?...。胸を締めつけられ、シベリアの大きな空を見上げて考え込んだ。

20171007_15 .jpgディナモ・スタジアム(サッカー場)

【注】ウラジオストクと日本の間の近代史については、「ウラジオストク 日本人居留民の歴史 1860~1937年」(ゾーヤ・モルグン著、藤本和貴夫訳、東京堂出版)を参考にしました。厚く御礼申し上げます。

 冒頭で紹介したように、第二次大戦後の「軍都」ウラジオストクは旧ソ連によって「閉鎖都市」に指定されたため、その実態は厚いベールで包み隠されていた。観光ガイドのオリガ・ソルダトワさんは「市外に住む祖母も市内に入れず、会うことができなかった」と当時を振り返る。だが今、この街は取り残されてきたロシア極東地域の開発拠点として脚光を浴び始めた。

潜水艦C-56博物館と観光ガイドのオリガ・ソルダトワさん

 ウラジオストクの人口は約63万人(2016年1月)でロシア極東地域では最大の都市である。札幌市とほぼ同じ緯度に位置し、1月の平均気温はマイナス12度まで下がるが、8~9月は30度を超える日も少なくない(在ウラジオストク日本総領事館「ウラジオストク市案内」)。

 ウラジオストクは港と坂の街であり、日本の長崎の雰囲気とよく似ている。その急な坂を、ちょっと懐かしい乗用車が走る。市内を走行する自動車の実に9割超が、日本から輸入された中古車なのだ。トラックも「○○運送」といった漢字を付けたまま活躍中。ただし関税が高いため、安い買い物ではない。地元で大人気のトヨタ自動車「プリウス」の場合、良質なものなら200万円ぐらいするから、大卒初任給(6万円程度)の30倍以上になる。

 坂の多い市街地では駐車場不足が深刻であり、違法駐車が激しい渋滞を招く。また、市内ではマツダと現地企業ソレルスの合弁工場が2012年からSUVや乗用車を生産している。

20171007_18.jpg坂の街で日本の中古車が大活躍

20171007_19.jpg裏通りは憩いの場

20171007_20.jpg講道館柔道の創始者・嘉納治五郎に師事したワシーリー・オシチェプコフ氏の像

 ウラジオストクはプーチン大統領も愛するロシア柔道の発祥の地でもある。この街は日本とは浅からぬ関係があり、今も親日家が少なくない。ジャーナリストのオリガ・クスコワさんもその一人だ。彼女はシベリア鉄道と数奇な縁があり、55年前にその車中で産声を上げた。15歳の時は車内で日本人の新婚カップルと出会い、ロシア語の苦手な二人の面倒をみた。そして日本に興味を抱き、わずかな手掛かりを頼りにこの夫婦の居所を探り、何と34年後の2011年に日本で再会を果たす。今、オリガさんは観光をテーマにしたインターネット・マガジンを編集しながら、ウラジオストクと日本の懸け橋になる。

 旧ソ連時代の1980年代後半に建設された高層アパートを訪問すると、オリガさんが自慢の家庭料理を振る舞ってくれた。一家は日本食とりわけラーメンが大好物で、通信会社エンジニアの夫が腕を振るうという。オリガさんは「ウラジオストクの観光客の大半は中国からの団体客だが、日本人にもっと来てほしい。そのために、ビザ無しで日露両国間を往来できるようにしてほしい」と訴えている。

ジャーナリストのオリガ・クスコワさんと高層アパート



20171007_23.jpgオリガさん自慢の家庭料理

 オリガさんのアパートは70平方メートル程度の3LDKで、内装はきれいにリノベートされていた。旧ソ連の住宅政策は手厚いものだったが、今はマイホームに市民の手が届きにくい。郊外のマンションでも大卒初任給約250倍の1500万円程度もするし、住宅ローン金利も二ケタだからだ。このため、社会人になっても親と同居する若者が多いという。約40円でバスに全線乗れるなど公共交通は今もしっかりしているが、無料が原則だった教育費や医療費が家計を圧迫する。社会主義から市場経済への移行に当たり、市民は自由を享受する一方で様々な歪(ひずみ)に苦悩し、ロシア正教の聖堂で祈りを捧げる。

約40円で全線乗車できるバス

市内に1路線だけ残る路面電車

20171007_26.jpg市民の台所「自由市場」

20171007_27.jpg帝政時代から続く「グム百貨店」

20171007_28.jpgロシア正教のポクロフスキー聖堂

 現在、市民は国境を超える問題も抱えている。ロシア革命後の1930年代、ウラジオストクには主にウクライナ地方から入植者がやって来た。今もウクライナ出身者がウラジオストクの中心的な存在だが、ウクライナへの帰郷や故郷にいる親戚縁者との通信が困難になっている。クリミア問題をめぐり、ロシアとウクライナが激しく対立するからだ。

 ある中年の男性は80歳の母をウクライナに残している。しかし、ウクライナ当局は帰郷して会うことを許さない。国際電話や電子メールもブロックされてしまうという。「パソコンの不得手な母が親戚の家へ行き、スカイプによって辛うじてコミュニケーションはとれますが・・・」と明かすと、笑みが消えた。クリミア問題では米欧もロシアに経済制裁を科しており、筆者もウラジオストク空港でVISAカードを使えず、あわてて日本円をロシア・ルーブルに両替した。

20171007_29.jpg伝統民芸品「マトリョーシカ」も国際政治を反映

 ウクライナとの対立は深刻だが、今のウラジオストクに「閉鎖都市」の面影はない。2012年のアジア太平洋経済協力会議(APEC)開催を機に、黄金橋やルースキー橋などの社会インフラが一気に整備された。旧ソ連共産党の最高権力者・フルシチョフ第一書記が1959年、「ソ連極東のサンフランシスコにする」と宣言してから半世紀余、この街は開放的な国際都市に発展し始めた。

20171007_30.jpg主塔間1104メートルの「ルースキー橋」は世界最長の斜張橋

 今年9月6、7両日、極東への外国による投資を促すため、ロシア政府は東方経済フォーラム(EEF)をウラジオストクで開催した。安倍晋三首相とプーチン大統領による日露首脳会談も開かれ、極東開発を含む8項目の経済・民生協力プランについて合意に達した。

 その際、安倍氏はプーチン氏に、嘉納治五郎の書「精力善用」(=目的を達成するために心身の力を最も有効に使う)を贈った。両首脳は市内で開かれた柔道のジュニア大会もそろって観戦したという。

 ウラジオストクは国内外の権力に翻弄され続け、ようやく今、飛躍する時代を迎えつつある。日本との間では複雑な歴史が存在するが、東京から最も近い「欧州」、あるいはロシア極東開発の「玄関」として注目度が高まるのは間違いない。シベリアの燃えるような夕日を見つめながら、この街の可能性を確信して帰国の途に就いた。

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ウラジオストクの夕景

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(写真)筆者 PENTAX  K-S2

 人類の長い歴史の中で最も身近な果物、それはリンゴかもしれない。旧約聖書において「知恵の樹」として登場し、英語圏ではaで始まる「Apple」が最初に習う単語になる。このため、リンゴには知性や知的といったイメージが強く、創造者に愛されてきた。例えば、アップル・レコードを設立したビートルズは音楽によって革命を起こした。スティーブ・ジョブズが築いたアップル・コンピューター(現アップル)は今、携帯電話やパソコンで世界を席巻する。

 一方、日本では古くから和リンゴの花が愛され、食用というより仏前の供え物として大切に扱われてきた。江戸時代末期に今の西洋リンゴの苗木が米国から伝来すると、明治政府は寒冷地の農業振興策としてその苗木を各地に送る。それに先立つ1875(明治8)年のクリスマス、弘前市(青森県)では米国人宣教師が生徒にリンゴを振る舞っていた。以来、旧藩士の屋敷畑で栽培が広がり、改良の上に改良が重ねられ、今や弘前市は全国生産量の2割を占め、日本一の「リンゴ王国」に発展を遂げた。

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 弘前市葛西憲之市長にインタビューすると、「日本一というより、クオリティーでは世界一のリンゴ」と言い切った。市は「りんご王国推進会議」を設置するなど、リンゴの観光資源化や内需・輸出拡大に努めている。とりわけ台湾で人気に火が付き、市長自ら現地の百貨店に乗り込んで6年前からプロモーションを展開中だ。また、市内では50店舗以上がアップルパイを販売し、そのガイドマップを制作するという熱の入れようだ。地元産のシードル(リンゴ酒)も有望視されており、弘前市りんご公園の一角に醸造所も設けた。

20171002_02.jpg弘前市の葛西憲之市長

20171002_03.jpg弘前市りんご公園 (提供)弘前市

20171002_04.jpg市内50店以上でアップルパイを販売

 弘前市の誇るキラーコンテンツはリンゴに限らない。東京ドーム10個分を超える約50ヘクタールの弘前公園には、52品種・約2600本ものサクラが植えられている。リンゴ農家の技術を導入した独特の剪定(せんてい)方式に支えられ、樹齢100年超のソメイヨシノは400本を数える。弘前城外濠の水面をサクラの花びらが覆い尽くす「花筏(はないかだ)」を一目見ようと国内外から観光客が詰め掛け、今春の「弘前さくらまつり」期間中の人出は251万人に達した。

 弘前市は「桜文化の情報発信基地」として国内外の知名度を上げるため、地道な努力を積み重ねてきた。例えば、中国・武漢市に対しては、サクラの木を贈り、その難しい手入れを担う「桜守」も派遣。今では中国一とも称される桜園が誕生したという。また、今年1月就航した定期チャーター便の効果もあり、中国から弘前へツアー客が訪れるようになり、葛西市長の「桜外交」は結果を出し始めた。来春、弘前公園のさくらまつりは100周年を迎え、知名度の更なる向上を期待する。

20171002_05.jpg弘前さくらまつり(提供)弘前市

 この弘前公園の中心が弘前城である。全国に12しか残っていない、江戸時代以前からの現存天守の一つである。リンゴやサクラと並ぶ弘前市のキラーコンテンツだが、近年危機に直面した。1811年に完成した現在の天守が傾き、本丸の石垣も膨らむなど老朽化が深刻化していたのだ。石垣を修理するためには巨大な天守を移動させる必要があり、市は工事期間中に貴重な観光コンテンツを失ってしまう...

 葛西市長は悩みに悩み抜いた末、決断を下した。天守の移動や石垣の修理といった全工程を見える化し、イベント開催によって観光資源にするというものだ。いわば「逆転の発想」で危機を好機に変えたのである。目論見はズバリ当たり、天守を持ち上げてゆっくりゆっくり仮天守台に移動させるという作業(曳屋=ひきや)が国内外で大きな話題に。米欧の有力メディアも「天守が動く」と驚きをもって盛んに報道し、葛西市長は「25億円規模の宣伝効果」と試算する。現在、移動後の天守はどっしりと地面に鎮座し、作りかけの巨大なプラモデルのようにも見える。2020年には修復工事が終わり、元の位置に戻されるという。

20171002_06.jpg「曳屋」で移動した現在の天守

20171002_07.jpg修復工事中の本丸石垣

 弘前城を計画したのは、津軽地方を統一した津軽為信(ためのぶ)。2代藩主・信枚(のぶひら)がそれを受け継ぎ、1611年に完成した。城を中心とする緻密な都市計画によって街づくりが進められ、それに基づいて寺社や家臣団、商人などが移住する。例えば、弘前城の南西には防衛拠点として33もの曹洞宗の禅寺が集められ、非常に珍しい「禅林街」が今も健在だ。また、4代藩主・信政(のぶまさ)の時代に建立された最勝院の五重塔は、高さ25.4メートルの威容と華やかさを誇り、観る者を圧倒する。

津軽為信の像

高さ25.4メートル、最勝院の五重塔

全国でも珍しい「禅林街」と長勝寺の三門

 津軽藩は優れた武家文化を育んだ。今回、その伝統を受け継ぐ匠(たくみ)を取材する機会をいただいた。この二唐(にがら)刃物鍛造所(弘前市金属町)は、およそ350年前に津軽藩から刀作りを拝命した鍛冶の名門だ。今は刀鍛冶7代目の吉澤俊寿さん(59)と8代目の剛さん(30)の親子が門外不出の製造技術を守り、「良品は声無くして人を呼ぶ」という家訓を信じて精進を重ねる。

 津軽地方をはじめ北東北では古代から製鉄が盛んであり、奈良・平安時代の鉄製刀も多数出土する。江戸時代の弘前城下では津軽藩主の庇護の下、100軒以上の鍛冶屋が活躍していたという。だが、明治政府が帯刀を禁止したため、刀鍛冶は存亡の危機に陥る。このため二唐は名刀の切れ味を和包丁などへ応用しながら、幾多の危機を乗り越えて必死にそして見事に生き抜いてきた。

 とりわけ俊寿さんの祖父、5代目の二唐國俊氏は1931年に意を決して東北大学附属金属材料研究所(仙台市)の門をたたく。当時世界最強の永久磁石鋼であるKS鋼を発明した、「鉄鋼の父」こと本多光太郎博士に長期講習生として師事したのだ。そして、國俊氏は江戸時代からの刀鍛冶に最先端の金属理論を導入する。

 第二次大戦中は展覧会で内閣総理大臣賞や陸軍大臣賞などを受賞し、押しも押されもせぬ名匠に。それが仇(あだ)となり、終戦後は駐留米軍に目を付けられた。だが、米軍もその技術力の高さに驚いて一目置くようになり、國俊氏を刀鍛冶や刀剣鑑査官として重用する。

 俊寿さんは「戦後、二唐の包丁は蟹工船など水産業向けに売り上げを伸ばしたが、漁業の衰退とともに売れなくなった」と振り返る。そこで刀鍛冶の技術を応用する形で、建築用の鉄骨製造事業を拡大した。

 例えば、「鍛冶屋が造る鉄骨製カーポート」は2メートルの積雪に耐え、雪国の市民が苦しむ雪降ろしの負担を軽くする。前述した弘前城の曳屋においても、実は二唐の鉄骨技術が大活躍。本丸作業構台や仮天守台の基礎造りを担い、時空を超えて津軽藩主に奉公したというわけだ。

 もちろん、伝統の刃物部門も進化を続けている。俊寿さんは後継ぎに悩んでいたが、長男の剛さんが8代目を引き受け、今は「父子鷹」で伝統を守る。剛さんは「学生時代は小説家になりたかったし、ゲームの企画にも興味があった。東京でフリーター生活を送っていたら、母から『お願いだから後を継いでくれ』と泣いて頼まれ...」―

 連日、剛さんは1200度の炉と向き合い、鋼(はがね)と地鉄を打ち合わせながら、一丁一丁に魂を込めて和包丁を作り続ける。全工程を一人で担い、完成までには数日を要する。同じものは二つとなく、価格は一丁数万円、高級料亭の料理人ならば20万円もの包丁も愛用するという。鋭くキラリと光る和包丁はもはや道具の域を超え、芸術作品のように見える。

 海外では日本食ブームとともに和包丁の人気が高まり、二唐はフランスやドイツの見本市に出展。世界自然遺産・白神山地の滝がつくる波紋からヒントを得た、「暗紋」という二唐独自のデザインは欧米での評価も高い。最近も剛さんは中国・広州の郊外まで出張し、「高級包丁に対する関心をひしひしと感じた」という。今、国内の人口減少に打ち勝つため、輸出に活路を見出そうと静かに闘志を燃やす。

20171002_12.jpg「父子鷹」で守る刀鍛冶

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 刀鍛冶という創業以来のコア技術を大事にする一方で、時代がもたらす技術革新を貪欲に吸収する。こうして二唐は生き抜いてきた。変えてはならない最も大切なものを守りたいからこそ、常に変化を求めて挑戦を続けてきたのだ。老舗(しにせ)といわれる企業に共通する経営哲学だと思う。

 だが、足元では人手不足が難題だ。俊寿さんは「刃物部門は若い人の感性が必要だから、4~5人増やしたい。相手の目を見て話すことができ、やる気さえあれば、わたしが一から鍛え上げる」と全国の若者に刀鍛冶への挑戦を呼びかけている。

20171002_14.jpg製造途中の和包丁

20171002_15.jpg完成した和包丁と独自デザイン「暗紋」

 二唐の鉄骨技術は意外なところでも活躍する。江戸時代から伝承されてきた「弘前ねぷたまつり」(例年8月1日~7日)で、ねぷたの骨組みを製作しているのだ。ねぷたの起源には諸説がある。中でも、暑さが厳しく農作業の忙しい夏に襲って来る睡魔を追い払う「ねむり流し」が始まりという説は興味深い。青森市では「ねぶた」を「ラッセラー」という掛け声で引くが、弘前は「ねぷた」で掛け声は「ヤーヤドー」。しかし、祭りに懸ける熱い思いに変わりはない。寝食を忘れてねぷたを製作し、街中を引いて歩いて燃え尽きる。老いも若きも男も女も、真夏の夜に夢をみる。

20171002_16.jpg20171002_17.jpg20171002_18.jpg「弘前ねぷたまつり」初日(2017年8月1日)

 弘前ねぷたは町会単位で出すのが基本だから、コミュニティを支える子供からお年寄りまでが団結して練り歩く。その手作り感が実に微笑ましい。弘前ねぷたは扇型が主流であり、その正面の「鏡絵」は三国志や水滸伝などの勇将を題材にしたものが多い。対照的に、裏面の「見送り絵」は美人画が主体である。

 弘前のユニークな伝統文化は、「食」の分野でも大切に受け継がれていた。戸田うちわ餅店もこうした老舗の一つである。創業時期は定かでないが、江戸末期から明治初期にさかのぼるという。うちわ餅にはゴマの餡(あん)がたっぷり掛けられ、香ばしい風味が口の中一杯に広がる。餅は絶妙な歯ごたえがあり、伝統の重みを味わえる逸品。これが一つ130円では、何だか申し訳ない気持ちになる。店を支える戸田しのぶさん(60)は「正直言うと、ゴマや砂糖、片栗粉などが値上がりし、この値段では厳しいんです。でも、高校生が買いに来てくれますから...」―

 5年前、この伝統の味に危機が突然襲いかかってきた。5代目が亡くなり、うちわ餅が作れなくなったのである。男の子が三人いたが、上の二人は家を出ており、五代目の妻しのぶさんは目の前が真っ暗に...。すると、三男の当時高校生だった陽介さん(24)が立ち上がり、「オレが店をやるよ」―。津軽海峡を単身渡り、北海道函館市にある製菓の専門学校に入学。菓子作りの基礎を学んで店に帰り、独学でうちわ餅作りに挑んだ。

20171002_19.jpg戸田うちわ餅店とゴマ餡たっぷり「うちわ餅」

 5代目は一冊のノートを陽介さんに遺していた。それが一子相伝のレシピである。陽介さんは読み進むうち、「季節や気温、湿度によって作り方が変わることを知り、びっくりした」―。試行錯誤の末、ようやく満足なうちわ餅を作れるようになり、昨年3月に店を4年ぶりに再開する。その心意気に対し、弘前市民は長い行列でこたえた。

 6代目となった陽介さんは毎日午前3時に起床し、母と二人で精魂込めて200個近くを作り上げる。陽介さんは「地元に愛されてきた店だから、変わることなく続けていきたい」―。趣味の海釣りもしばらくお休み。父の背中を想い出しながら、うちわ餅作りの腕上げに集中する。

20171002_20.jpg戸田うちわ餅店6代目陽介さんと母しのぶさん

 このほかにも市街地には、海山川の新鮮素材を活かし、美味美酒を提供する飲食店が並んでいる。また、「弘前ラーメン」の店はあちこちにあり、懐かしい醬油味でほっと一息つける。

20171002_21.jpg添加物使わずに素材の味を引き出す(芝田商店の相馬映江さん)

20171002_22.jpg「弘前ラーメン」懐かしい醤油味

 江戸時代に城下町として繁栄した弘前市には、明治維新以降、西洋文化が急速に流入した。市街地は大規模な自然災害や戦禍を免れてきたため、今も明治・大正時代のレトロモダンな建物が幾つも健在であり、シャッターを切る回数がいつの間にか増えている。

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旧第五十九銀行本店本館(現青森銀行記念館)

カトリック弘前教会聖堂と郷土色豊かなステンドグラス

20171002_26.jpg日本聖公会弘前昇天教会教会堂

20171002_27.jpg旧弘前市立図書館

20171002_28.jpg商店街のシンボル「一戸時計店」

 日清戦争後の1898年、弘前市には陸軍第八師団が設置され、「軍都」と呼ばれるようになった。同師団が対ロシア開戦に備えて厳冬の青森・八甲田山で雪中行軍訓練を行い、死者199人を出した遭難事件は小説や映画になった。なお大正ロマンの雰囲気が漂う師団長官舎は今、スターバックスコーヒーの店舗として活用されている。

20171002_29.jpg旧陸軍第八師団長官舎(現在はスターバックスコーヒーの店舗)

 弘前市では、津軽藩の藩校を受け継ぐ形で1872年に私立学校・東奥義塾が開校。1920年には旧制弘前高校が設けられ、「学都」としての性格も強めた。今も市内には国立大学法人・弘前大学など六つの高等教育機関が存在する。学生約1万人と教職員約2000人を合わせると、市の人口の6%強を占める。

 これまで紹介してきたように、弘前市はリンゴやサクラ、弘前城、伝統工芸、豊かな食文化、レトロモダン建築といった多彩なコンテンツに恵まれ、時代の変化に対応しながら、城下町→軍都→学都と進化を遂げてきた。

 しかし、弘前市も少子高齢化の荒波からは逃れられない。人口は2016年の17.6万人から2035年には14万人まで減り、逆に65歳以上の高齢化率は29.8%から37.0%まで上昇する見通しだ。このため、市は「日本一のリンゴ産地でも高齢化で担い手が不足し、その高齢者を支える看護師・介護従事者も足らなくなる」(葛西市長)と危機感を募らせ、周辺自治体に先駆けて都市再生特別措置法に基づく「立地適正化計画」を今年3月末に策定した。

 この計画の中で、弘前市は①都市的魅力の中核となる「中心地区」②日常生活を支える都市機能を備えた「地域拠点」③学都の拠点となる「学園地区」―という三種類の「都市機能誘導区域」をバランス良く設定。その周りに居住を維持・誘導すると同時に、各誘導区域間を公共交通ネットワークで結ぶという構想だ。ネットワーク型コンパクトシティを目指すものであり、市はその形が似ていることから「りんごの花」型の都市構造と呼ぶ。葛西市長は「拡散した市街地を元に戻すことは難しい。郊外の拠点も尊重する『コンパクト・プラス・ネットワーク』のほうが、持続可能な社会を実現できるのではないか」と指摘する。

20171002_30.jpg弘前市の中心地区と岩木山

20171002_31.jpg「津軽富士」とも呼ばれる岩木山(標高1625メートル)

20171002_32.jpg利用客数が回復中の弘南鉄道大鰐線(おおわにせん)

20171002_33.jpg真冬の風物詩「雪燈籠まつり」(提供)弘前市

 弘前市がコンパクトシティを志向する背景には、雪国独特の事情もある。毎年の雪降ろしは市民にとって大きな負担であり、高齢者になれば尚更だ。このため、市は除雪から融雪に舵を切り、歩道の雪を溶かしてお年寄りが冬でも気軽に外出できるようにしたい。だがコストを考えると、広い市域全体に整備することは難しい。このため、「できるだけ集積して住んでもらい、融雪ネットワークをしっかり整備する」(葛西市長)というわけだ。

 そして定住人口の減少が不可避ならば、恵まれた各種コンテンツによって国内外から観光客を呼び、交流人口を増やそうというのが弘前市の生き残り戦略である。葛西市長は青森県庁職員時代、縄文時代の大規模集落跡が発見された「三内丸山遺跡」(青森市)の公園整備を担い、有数の観光資源に仕立て上げた実績がある。ソフトパワーの集客力とその重要性を学び、それが弘前市政でもリンゴ王国のPRや弘前城天守移設の見える化などの施策に活かされている。

 今、弘前市は市街地の古い赤レンガ倉庫とその周辺を再開発し、美術館を核とする文化交流施設を2020年に整備する計画を進めている。世界的な現代美術アーティストの奈良美智(なら・よしとも)氏は弘前で生まれ育ち、赤レンガ倉庫の一角にも同氏の作品がある。葛西市長は「弘前のキラーコンテンツは歴史・文化」と強調し、ソフトパワー全開で人口減少時代を乗り切る考えだ。この街は城下町→軍都→学都を経て、次は「観都」として発展する基礎を築き始めた。

再生する赤レンガ倉庫と奈良美智氏の作品

(写真)提供以外は筆者 PENTAX  K-S2

 今、日本の卓球界が熱い!2016年リオデジャネイロ五輪では、エースの水谷隼が男子個人戦で日本人初の銅メダルを獲得。団体戦も男子が銀、女子が銅に輝いた。独デュッセルドルフで今年5~6月に開かれた世界卓球選手権大会でも、日本勢は5個のメダルを獲得し、「卓球王国」を世界にアピールした(敬称略)。

 こうした中、リコー卓球部にも期待の「超新星」が出現した。有延大夢(ありのぶ・たいむ)、その人である。水谷の母校で大学卓球界の名門、明治大学を今春卒業後、有延は入社早々その実力をまざまざと見せつけた。

 入社式からわずか五日後の4月8日、日本卓球リーグのトップ選手20名が参加する「ビッグトーナメント」に出場すると、有延はいきなり3位に入賞したのだ。強豪を次々に撃破する快挙に、リコー卓球部の関係者は度肝を抜かれた。

20170927_01.jpg(写真)筆者


有延大夢(ありのぶ・たいむ)

1994年生まれ、22歳。福岡県出身。学生卓球界の名門である野田学園中学・高校を経て、明治大学に進学。1年生で第10回全日本学生選抜選手権大会男子シングルス優勝。2017年4月リコー入社、卓球部所属。


 卓球部監督の工藤一寛は有延の非凡な才能に舌を巻く。「相手の心理を読むのがうまい。表情をよく見て、相手が嫌がるコースに打ち込んでいる。テクニックだけでなく、攻守の切り替えなど試合の組み立ても巧みだ」―。そして、「有延の入部によって、卓球部の悲願である『日本卓球リーグ優勝』に一歩近づいた」と期待を膨らませる。卓球部には現在、有延を含めて部員6人が所属。リコーグループの社員として普通に仕事を続けながら、就業時間後や休日に東京都大田区にあるリコーの体育館で練習に励み、汗を流している。

 卓球部が優勝を目指す日本卓球リーグ大会は、日本卓球リーグ実業団連盟に加盟するチームが競い合う団体戦だ。前期と後期の年2回開催。リーグは1部と2部に分かれ、現在リコーが所属する男子1部リーグには強豪8社がしのぎを削る。1部リーグで年間総合順位の上位4チームは、日本一を懸けて「内閣総理大臣杯JTTLファイナル4」に進出する。プロ野球に例えるなら、日本シリーズに相当する。

 今年6月の前期日本卓球リーグ大会では、リコー卓球部は5位になり、昨年後期から順位を一つ上げた。年間総合4位を射程圏内に入れ、初のプレーオフ出場も現実味を帯びてきた。だがその前に、まずは11月の後期リーグで優勝を目指す。それには、有延の右腕フル回転が絶対条件になる。

20170927_02.jpg(写真)筆者

 有延は4歳で直径40ミリの白球と出会い、それが人生の分かれ道となる。兄と一緒に卓球場へ連れていかれ、父親から卓球のイロハをたたき込まれた。小学校に入ると練習も厳しくなり、「何度も何度も泣いた」―。しかしその甲斐もあり、小学校時代に三度、全国大会で3位に輝く。

 有延は小学校を卒業すると親元を離れ、学生卓球界の名門である野田学園に進学。中学・高校と卓球に打ち込み、高校1年で出場したインターハイで全国3位に。傍から見ると素晴らしい成績だが、本人は満足できなかった。「いつか大会で優勝したい!」―。常にこの想いが心の真ん中を占めていた。

 ようやく大願が成就したのは大学時代。明治大学に進学した有延は、1年生で「第10回全日本学生選抜卓球選手権大会」で優勝を果たした。実は試合の3カ月前、練習で右手を骨折し、1カ月間の休養を余儀なくされていた。だがその間に自分の半生を振り返る時間が生まれ、卓球を続けていく覚悟を決めたという。復帰すると、以前にも増して練習に集中できた。まさに怪我の功名だ。

 晴れて学生チャンピオンとなった有延は翌年、「ナショナルチーム候補」に選出された。水谷をはじめとする国内トップ選手とともに練習合宿に参加。それから現在に至るまで、彼らと切磋琢磨してきた。合宿では水谷から強烈な刺激を受け、最大の目標に据える。有延が「どこにボールを打っても、必ず打ち返してくる」と嘆くように、水谷の反射神経やボールに対する執着心は世界最高水準。だからこそ、有延は水谷の背中を死に物狂いで追い掛けてきた。

ナショナルチームのユニフォーム

(写真)筆者

 「卓球は技術勝負ではなくて心理戦。相手との心の読み合いが面白いんです」―。卓球の魅力を尋ねると、有延からこんな答えが返ってきた。卓球の試合では、6ポイント経過するごとに短い休憩がある。その際に有延はタオルで顔を拭いつつ、実は相手の表情をじっくり観察し、その心を必死に読むという。その表情によっては、攻め方を変えることもある。

 有延の得意技は「カウンター」。時速100キロを超える渾身のショットを打ち返してポイントを取れば、相手に心理的にダメージを与えられるからだ。有延はクールな顔の下に、強かな戦術家という別の顔を隠している。

 卓球では日本トップレベルの有延も、社会人としてはまだ一年生。実習生を経て営業部に配属され、リコー営業マンとして仕事の腕も磨き始めた。仕事と卓球の両立は容易でないが、有延は「職場には卓球部のOBも多くて相談しやすい。上司も理解を示してくれている」と話す。長期の合宿で仕事を休む必要もあるが、「現役の時は卓球を頑張れ」と笑顔で送り出してくれる上司には、「いくら感謝してもしきれない」という。

 「二足のわらじ」の最大の課題は練習時間の確保だ。体育館が午後9時に閉まるため、仕事を終えてすぐに始めても平日の練習は2時間が限度。学生時代は4~5時間が普通だったから、効率を上げなくては力が落ちてしまう。有延はそのコツを卓球部の先輩から学び始めた。「先輩は仕事を通じて段取りを組むことに慣れており、練習計画を立てるのがうまい。さすが社会人だと思う」―。つまり、計画を立てる(Plan)、実行する(Do)、その結果を評価する(Check)、改善につなげる(Act)―という仕事のPDCAサイクルを、実業団選手は卓球の練習に導入しているのだ。

 社会人になると、卓球に向かう気持ちに変化は生じたのか。有延にそんな疑問をぶつけると、「応援してくれる方々のためにも、試合に勝たなくてはいけない。そういう使命感が生まれました」―。会社の同期が試合の応援に駆けつけてくれると、ぐっと力が入るという。「勝つことで応援してくれる社員の皆さんを元気にしたい」―。名が示すように、有延大夢には周囲の夢をいつの間にか大きくしてしまう不思議な魅力がある。

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 世界的な人気歌手レディー・ガガさん(31歳)が9月8日、ワールドツアーが終わる今年12月以降、病気療養のため無期限の休養に入ると発表した。病名は「線維筋痛症」。全身の筋肉や関節に強い痛みがあり、けん怠感やうつ症状、睡眠障害などを伴う。原因は不明。このため、根本的な治療方法も確立されていない。薬剤による痛みの緩和など、対症療法的な治療が中心だ。日本でもおよそ200万人の患者がいると推計されているが、医療関係者の間でも十分な知識が普及していないため、線維筋痛症と病名がつき、専門医を受診している人は4000人前後だという。

 実は、家族の一人が10年以上にわたり線維筋痛症を患っている。症状を訴え始めてから、線維筋痛症と診断がつくまで3年ほどかかった。地元の小さなクリニックで筋肉や関節の痛みと全身倦怠感を訴えると、「疲れがたまっているせいでしょう。年齢とともに、だんだん身体の無理が効かなくなりますから、ゆったり過ごしましょう」と気休めの湿布薬と安定剤を処方された。その後、症状は全く改善せずに、いくつもの整形外科や神経科、脳神経外科などを渡り歩いた。そのたびごとに、血液検査やレントゲン、MRI検査を受けるものの、異常所見なし。「特に悪いところはないようですが、鎮痛剤を出しておきますから、それで様子を見ましょう」と言われて、「この痛みを誰も理解してくれないのか」と本人も家族も絶望の淵に立たされる。精神科でうつ病の治療を受けたこともあったが、慢性的な全身の痛みの改善には全く効果がなかった。

 結局、振り出しに戻って、地元のクリニックで「痛みで眠ることができない。睡眠薬を処方してほしい」と訴えたところ、医師が論文を調べて、あちこちに問い合わせた末、「線維筋痛症という病気かもしれない」と日本でも数少ない専門医のいる病院に紹介状を書いてくれた。

 しかし、診断がついたところで、症状緩和の薬剤投与がメインの治療のため、ドクターに会うのは2カ月に一度程度。根本治療法がないため、病状が目覚しく改善するわけではなく、最低位安定。薬によって一時的に痛みが緩和されることもあるが、油断して外出したり、張り切って家事をすると翌日から通常よりも激しい痛みに襲われ、数日間は起き上がれなくなることの繰り返しだ。ようやく専門医がいる病院にたどりついて期待をもった患者にとっては、「結局は何も変わらない」現実が耐えがたく、自暴自棄になる。

 もう一つやっかいなのは、見た目は病人らしく見えないことだ。内臓や脳には問題がないため、急激に食欲が落ちたり、やつれたり、呂律(ろれつ)が回らなくなったりすることがない。だから、周囲の人からは「元気なくせになまけている」「ただのわがまま」と誤解される。痛みのために親類の葬儀に出席することができず、激しく罵られたこともある。

 レディー・ガガが休養の期間を明確にしていないこと、病名を公表した直後に、ブラジルや欧州でのコンサートをキャンセルしたことは、同じ病気の家族を持つ者として、事情はよく理解できる。テレビニュースなどでは、「しっかりと治療して、一日も早い復活を願います」という趣旨の識者のコメントがあったが、原因が不明で治療法も確立されていない現状においては、復活がそれほど容易ではないことも想像に難くない。

 それでも、原因の解明、治療法の進歩の可能性を信じたい。

 レディー・ガガの勇気ある病名公表によって、世界中で初めてこの病気の名前を耳にした人が数多くいたに違いない。「認知される」ことは、理解への第一歩だ。病院を転々としながら、診断名がつかずに苦しんでいる人が、専門医を受診するきっかけにつながるかもしれない。「なまけ病」「サボリ癖」と中傷を受けていた人も、周囲の人の理解を得られるようになるかもしれない。何より、患者同士の連帯が心の支えになり、声を上げる患者が増えることが医療界を動かす力になると思いたい。

 9月15日付の日経新聞は、「横浜市立大学と長崎大学が、線維筋痛症の原因物質の候補となるたんぱく質を見つけたと発表した」ことを伝えた。このたんぱく質の働きを抑える化合物を線維筋痛症のモデルマウスに投与したところ、明らかな症状の改善が見られたという。新しい治療薬の開発につながりうる発見だ。レディー・ガガが病名を公表しなければ、地方大学の地味なプレスリリースが全国紙で報じられることはなかったかもしれない。

 レディー・ガガの代表曲「Born This Way」を日本語に訳せば、「こうなる運命のもとに生まれてきた」だろうか。しかし、運命は変えられる。病名の公表によって、何かが変わり始めている。

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 先般、ロシア沿海地方の中心都市、ウラジオストクを取材して歩いた。日本海を挟んで日本と向き合うこの街は、かつてわが国との貿易が活発であり、1919年頃は6000人もの日本人が居留していた。今でも旧日本人街の面影を残す古い建物が多く、往時をしのぶことができる(詳細はRICOH Quarterly Headline Vol.17=9月29日発行予定=に掲載する拙稿をご覧いただければ幸いです)。本コラムではこの街の「今」について雑観を記したい。

 ウラジオストクは坂の街であり、50代半ばの不摂生の塊(かたまり)が歩くにはしんどい。地元の人もマイカーでの移動が一般的で、その9割以上を日本から輸入された中古車が占める。東京では見かけなくなったかつての名車が、今も大事に使われている様子を見ると何だかうれしい。トラックは日本を走っていた時のままの姿であり、漢字の企業名が微笑ましい。観光ガイドをお願いしたオリガ・ソルダトワさんに尋ねると、「日本語のほうがオシャレな感じがするから人気なんですよ」という。

「漢字」が大人気、日本の中古トラック

 日本食も人気が急速に高まっており、もはや「イザカヤ」がロシア語化していた。元々、この地方では魚介類はもちろん、コメやソバの実などを食する習慣があり、地元料理は予想以上に日本人の舌に合う。伝統的なピロシキは肉を詰めたものだけでなく、スイーツ代わりの甘いものまで数十種類もある。でも子どもにとっては、母の味が一番。仕事が忙しいオリガさんも、「冷凍食品は嫌いですから、自宅でせっせと小麦粉をこねています」という。

カニやビーフが美味しいフラット・サンドイッチ

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ピロシキはバリエーションが豊富

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 市街地から、世界最長の斜張橋といわれる「ルースキー橋」で海峡を渡ると、ほんの数分で対岸にあるルースキー島に到着。ロシアのエリート校の一つとされる極東連邦大学があり、先週は東方経済フォーラーム(EEF)が開催された。広大なキャンパスには公園のほか、短い夏を楽しむ海水浴場まである。EEFに参加した安倍晋三首相も大学の宿泊施設を利用したようだ。

東方経済フォーラムが開かれた極東連邦大学

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広大なキャンパスには海水浴場も(中央奥がルースキー橋)

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 このルースキー島にはかつて日本を仮想敵国とした要塞の跡地があり、大砲群が復元されていた。しかし今やこの地で日露両国の首脳が固い握手を交わし、極東開発をめぐり経済協力を話し合うのだから、人間は決して絶望的な存在ではない。過去72年間、人類は局地戦を防げなくても、第三次世界大戦だけは回避してきた。現下の朝鮮半島危機も英知を結集して乗り越えなくてはならない。

ルースキー橋とロシア軍の旧要塞

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 ルースキー島からウラジオストク市街地に戻り、北朝鮮レストランを外からのぞいた。すると、中国人と見られる団体客がたくさん出てきた。危機など全く無縁といわんばかりに笑い声を上げながら...。国際情勢はいつの時代も複雑怪奇、予断を排除して注視していきたい。

ウラジオストク市街地

(写真)筆者 PENTAX K-S2

【参考文献】「ウラジオストク 日本人居留民の歴史 1860~1937年」(ゾーヤ・モルグン著、藤本和貴夫訳、東京堂出版)

 山中伸弥・京都大学教授が2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞して以来、人工多能性幹細胞(iPS細胞)が難病を治す「再生医療」への期待が一気に高まった。ただし、技術的な課題も多く、実用化までの道のりは平坦でない。それを待たずとも、工業製品の基幹技術を医療分野に応用しながら、人の命を救う人工臓器の開発が進められている。

 一口に人工臓器と言っても、いろいろな種類がある。iPS細胞などを使って人間の体内で再生する高度なものから、学校の理科室で見かける人体模型まで様々だ。

 今回紹介するのは、医療機関で手術前のシミュレーションや研修医のトレーニング用に使われる人工臓器モデルである。形状を本物の臓器に似せるだけでなく、メスで切った時の「柔らかさ」といった微妙な感触も求められる。また、臓器に不可欠な中空構造の血管の再現まで必要なケースもある。だが現在、医療機関に提供される人工臓器モデルは十分でないものが多い。

 そこでリコーは今まで複合機(MFP)やプリンター用のトナー・インクで培ってきた材料技術を活かし、人工臓器モデルを作る研究開発に着手した。リコー研究開発本部APT研究所の法兼義浩(のりかね・よしひろ)スペシャリストは「その中核となる材料が、独自開発したナノコンポジット・ハイドロゲル。これは水分や無機材料、有機高分子をナノ(十億分の一)レベルで混ぜ合わせたものだ」と語る。

 人間の体内では、水分が約60%を占める。水分を多く含む材料を使えば、臓器に近い感触の人工臓器モデルができる。また、無機材料は人工臓器モデルの柔らかさのカギを握る。代表的な無機材料はガラスやセメントであり、その割合が少なければ人工臓器モデルは柔らかくなる。逆に多ければ硬くなってしまう。また、有機高分子は水分と無機材料をつなぎ合わせる役割を果たす。リコーはこうした材料の配合割合を精密に制御しながら、柔らかさを自由に設定できる人工臓器モデルの製造技術を確立した。

人工臓器モデル(写真は腎臓の例)

20170821_01.jpg(写真)リコー研究開発本部APT研究所提供

 この材料技術に加え、リコーはMFPのインクジェット(ノズルからインクを吹き飛ばす)技術を活用し、3Dプリンターを使って3次元構造の人工臓器モデルを開発した。その結果、困難とされていた中空構造の血管モデルも作れるようになった。

血管モデル

20170821_02.jpg(写真)リコー研究開発本部APT研究所提供

 リコーが医療分野で人工臓器モデル向けなどの材料開発を進めていく上で、医療機関との連携は欠かせない。例えば、名古屋大学医学部放射線医学教室と協力し、カテーテルを挿入できる血管モデルの開発を行い、手術前のシミュレーションや若い医師の訓練へ役立てようとしている。名大からは、「従来では作成が難しかった細いカテーテル(マイクロカテーテル)を挿入できる血管モデルであり、脳や腹部の血管内手術の訓練・シミュレーションにも使えるのではないか」といった評価を受けている。 

 オフィスで生まれた技術が医療現場で人の命を救う。そんな時代が間近に迫る。先入観にとらわれず、柔らかな頭で柔らかな人工臓器モデルを...。法兼スペシャリストをはじめ、リコー技術陣の夢は果てしなく広がる。

 2016年5月、井の頭自然文化園(武蔵野市)で飼育されていたアジア象のはな子が69年に及ぶ生涯を終えた。はな子は終戦後、タイから「日本の子どもたちに動物と触れ合う機会を」として寄贈された。1949年に来日した時は2歳。その後、しばらくは移動動物園として各地を巡り、復興のシンボルとして人気者になり、1954年からは61年間にわたり井の頭自然文化園で生活していた。

 動物ジャーナリストの佐藤栄記さんははな子の生前から同園に通い詰め、撮りためていた映像や死後に明らかになった事実を基に、ドキュメンタリー映画「はな子さんからのメッセージ」を制作、この夏に公開した。

 はな子に与えられていたスペースは約200平方メートル。ファミリータイプのマンション2~3戸分は人間にとってはかなり広く感じるが、野生の象はサバンナや森林で群れをなして1日に20~30キロも移動しながら生活しているという。ほんの10秒ほどで行き来できてしまう固いコンクリートのスペースは、象の本来の生態にはあまりにそぐわない生活環境だったのではないか。しかも、はな子は井の頭自然文化園に来てから、一度も他の象に会ったことがなく、生涯、孤独なまま死を迎えたという。

 映画の中で、佐藤さんは「東京の多くの家庭で、はな子さんをバックに撮った記念写真があるかもしれません。アルバムのはな子さんはお尻を向けていませんか?」と語りかける。実は、はな子の象舎は雨水がたまらないよう、わずかに傾斜して設計されていた。固いコンクリートの上で、少しでも踏ん張りが効くように、斜面の上側に前脚を置いていたと考えられるそうだ。死後の解剖で右前脚が関節炎だったことも判明したという。

来園者にお尻を向けて立つはな子

20170810_01.jpg(提供)佐藤栄記氏

 佐藤さんは「動物園を全面否定するつもりはないが、もっと良くなるものなら、そうしてもらいたい。果たして、あんな狭い場所で象のような大きな動物を飼ってよいのか、考えなければならない」と問題提起する。

 映画の中では、井の頭自然文化園がはな子の死後、スイスのチューリッヒ動物園やドイツのケルン動物園の象舎の航空写真と比較して、はな子がいかに狭いスペースに閉じ込められていたのか、自虐的ともとれる振り返りをしていたことも紹介されている。つまり、同園も決してはな子の展示スペースを良しとしていたわけではなかったことが推察できる。日本では1997年、北海道の旭山動物園が、動物が走ったり、泳いだり、飛んだりする瞬間の美しさや力強さを見せるため、動物本来の動きを引き出す「行動展示」をとり入れた。それが大きな人気になったことをきっかけに、動物の本来の生態に近い環境を整える動物園が少しずつ増えてきている。佐藤さんは「不幸な動物を減らし、動物と人間が共存共栄できる未来につながるよう、映像を通じて働きかけていきたい」と話している。

 佐藤さんは、東京に残された小さな自然の中で生きる動物や昆虫を丹念に取材し、2015年に「東京2020」、2016年には「PHANTOM PARADISE(幻の楽園)」を発表。干上がりかけた水たまりや側溝からカエルや昆虫の卵を保護し、自宅で孵化・羽化させて自然に戻す活動もしている。

 映画「はな子さんからのメッセージ」、次回上映予定は、杉並区の「かふぇ&ほーるwith遊」にて8月18日午後1時、3時、4時45分、6時、7時の5回。入場料は1500円(高校生以下無料)。午後1時と3時の回は佐藤さんによる「いきいき!生きもの教室」を開き、子どもたちから動物や昆虫に関する質問を受け付ける。

 工場と住宅地が入り組んで所在する「住工混在」は、日本の工業都市における共通課題である。工場から発生する騒音や振動、臭気が近隣住民との軋轢を引き起こすからだ。

 こうした中、日本を代表する産業集積地の東大阪市は「住工共生」のまちづくりを目指し、住工混在から生じる課題の緩和へ向けた取り組みを強化しているという。東大阪市役所を訪ね、経済部モノづくり支援室の巽佳之室次長と間所信行氏を取材した。

 東大阪市の住工混在は、日本の他の工業都市と比較しても特に深刻である。都市計画における「用途地域」をみると、工業・準工業地域などの「工業系」地域と第1種・第2種住居地域といった「住居系」地域がパッチワークのように入り組む。このため、工業系と住居系の両地域が接する範囲も広くなる。

東大阪市都市計画図

20170807_01a.jpg(出所)東大阪市

 そこで東大阪市は、モノづくり企業の操業環境の保全と市民の快適な住環境を両立するために、「住工共生のまちづくり条例」を2013年4月1日に施行した。この条例では、モノづくり企業の集積を維持するために市内準工業地域の91%を「モノづくり推進地域」に指定し、地域内で住宅建築等を行う際に一定の手続きを必要としている。

 例えば、住宅の建築主に対しては、「市へ事前の書類提出と協議」や「近隣モノづくり企業への説明」などの実施を義務付ける。また、住宅仲介業者に対しては、宅地や住宅の取得者や賃借人へ「工業地域や準工業地域の趣旨」や「近隣モノづくり企業の立地状況」などの説明を課す、といったものだ。

 一方で工場に対しても、市民の住環境の向上のために施策を講じる。「工業専用地域やモノづくり推進地域への地域外からの移転」や「住宅側から騒音や振動に対する苦情を申し立てられた際の設備等の改善対策」などに対する支援である。市がこの対象経費の一部を補助する。

 こうした取り組みが奏功し、東大阪市へは大阪府内の他地域から工場の流入も起こっているという。また、市内には近畿自動車道と阪神高速道路といった大動脈が走り、物流業からの需要も高い。工業・準工業地域に物流施設に適した広さの土地があれば、即座に買い手が付いてしまうほどだという。

 「モノづくりのまち」を標榜する東大阪市だから、このように住工混在の問題には特に気を遣い、工場と市民の双方に働きかけ、一定の成果を出している。

 さらに同市は、モノづくりに加え「ラグビーのまち」でもある。市内には高校ラグビーの聖地「東大阪市花園ラグビー場」があり、2019年に日本で開催されるラグビーワールドカップの会場の一つにも指定され、盛り上がりが期待される。

 また、市内には完全養殖の「近大マグロ」などの水産研究で知名度が高い近畿大学があり、近年急速に人気を伸ばしている。志願者数は2014年から4年連続で全国一位となった。東大阪市は、このような勢いづく「大学の発信力」も借りながら、産業とスポーツの両面で東大阪のブランド力を高めていきたいという。

東大阪市経済部モノづくり支援室
巽佳之室次長(左)・間所信行氏(右)

20170807_02.jpgワールドカップ向けオリジナルラガーシャツ

20170807_03.jpg(写真)筆者

 日本の景気が上向き、さまざまな製品やサービスに対する需要が高まってきた。一方で、それを供給する側の企業の人手不足は深刻な問題となっている。

 日本銀行が7月3日に発表した6月の全国企業短期経済観測調査(短観)によれば、日本企業の景況感を示す「業況判断」が改善を続ける中、人手が「過剰」とみる企業の割合から「不足」とみる企業の割合を差し引いた「雇用人員判断」の値はマイナス25となっており、企業の人手不足感は依然として強い。

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(出所)日本銀行
(注) 調査対象の全企業の合計値

 このような状況の中、身近なところで人手不足解消に向けて努力する企業を見つけた。それは、筆者がよく利用するスーパーマーケットである。このスーパーは駅から近く、会社帰りの会社員も数多く利用するため、夜遅い時間まで混雑している。このため、いつもレジ前には長蛇の列ができ、レジ係が足りていない状況だった。

 しかし、このスーパーは先月、「セミ・セルフレジ」と呼ばれる端末を導入し、レジ業務の効率化に乗り出した。これは、通常のレジ端末とは別に設置された支払い専用機で、顧客が自分で代金決済する仕組みだ。ひと頃注目された、商品登録から代金決済までのすべてのレジ業務を利用客が行う「セルフレジ」(フル・セルフレジ)とは異なり、端末の機能を代金決済に限定しているのが特徴だ。

 利用客から購入商品を受け取ると、レジ係はまず通常のレジ端末で商品登録を済ませる。利用客は登録済みの商品カゴを持ってセミ・セルフレジに移動し、モニターに表示される購入合計金額を現金で投入する。

 レジ端末よりも、セミ・セルフレジの端末が多めに設置されているため、「支払い待ち」が発生することは少ない。利用客は、自身で決済する手間が発生するものの、早く支払いを終えられるので、顧客満足度はむしろ向上する。

 一方でレジ係は、利用客が決済のために財布からお札や小銭を探す時間を待つことなく、すぐに次の利用客の応対を始められるため、1件当たりのレジ業務の時間を短縮できる。

 こうして、このスーパーはレジ業務の一部である「代金決済」を利用客に任せて「分業」することにより、業務を効率化しているわけだ。セミ・セルフレジの導入後はレジ待ちの列は解消され、少数のレジ係で利用客の応対もできているようだ。

 もちろん、「フル・セルフレジ」を導入し、すべてのレジ業務を利用客に任せることも考えられる。しかし、バーコードが付いていない商品やセール品などをレジに登録するには個別の操作が必要なため、利用客が商品登録の操作に手間取り、サポートスタッフが必要になったり、レジ待ちの列ができたりすることも珍しくない。

 それゆえこのスーパーでは、操作が複雑な商品登録は業務に習熟したレジ係が行い、操作が簡単な代金決済の部分だけを利用客に任せる。というレジ係と利用客の「理想的な分業のバランス」を実現できる、セミ・セルフレジが活躍しているというわけだ。

 このように、企業が人手不足を解消するためには、「人手のかかる業務」の一部を顧客に任せるのは妙案だろう。身近なスーパーの取り組みから、人手不足解消のコツを教わった気がした。

 接客の業界では「お客様は神様である」という言葉がよく聞かれる。人手不足で「猫の手」も借りたいこの時代、ここはひとつ「神の手」を借りてみてはどうだろうか。企業と顧客との間のちょうどいい関係が見つかるかもしれない。

 人口減少に伴う内需の伸び悩みや新興国の追撃を受け、日本のものづくりが危機にさらされていると言われて久しい。このうち大企業はコスト削減のため海外に生産を移管し、生き残りに必死だ。国内では、ロジスティクスの発達によって産業の地域集積にかつてほどの価値がなくなる一方で、工業地帯の宅地化が工場と地域住民との間に摩擦を引き起こす。このため、日本のものづくりを担ってきた中小企業や町工場は多くの難題に直面している。

 こうした中、産業集積地では官民が一体となって中小企業の再生に取り組み始めた。町工場の集積地の代表である東京・大田区。同区の製造事業者数は、最盛期の約9000から6割超も減り、約3500まで激減した。だが、「仲間まわし」と呼ばれる独自の企業間ネットワークを復活させ、ものづくりの町として生き残りを図ろうとしている。

大田区内の製造業の事業者数(工場)

20170630_01.jpg(出所)大田区「大田区における製造業事業者数の動態」

 一方で、関西の代表的なものづくりの集積地が大阪府である。都道府県別の製造業の事業所数は大阪が全国トップの約3.6万カ所を誇り、東京都の約3.5万カ所を上回る。製造業の従業者数で見ると、自動車産業が盛んな愛知県(約80万人)には及ばないものの、大阪府は全国2位の約49万人。中小企業に限れば、大阪府の製造品出荷額は全国2位の10.3兆円に達し、トップの愛知県(11.9兆円)に肩を並べる。

 大阪のものづくりの歴史は長い。既に8世紀頃には河内地方に職人集団「河内鋳物師(かわちいもじ)」が定住し、金属の鋳造で日本全国に名を馳せていた。奈良や鎌倉の大仏の鋳造にも参画したと伝えられており、中世の梵鐘(ぼんしょう)の8割以上が「河内産」とされる。

 現在も大阪では、活力ある中小製造企業群が知られており、特定分野で高い世界シェアを誇る「グローバルニッチトップ」企業も少なくない。企業間連携の取り組みも先進的であり、2009年には東大阪市の中小企業群が製作に携わった小型人工衛星「まいど1号」が打ち上げられた。これは、大阪のものづくりの力強さの象徴として全国的に話題になった。

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まいど1号模型

 どうして大阪の中小企業はものづくりの活力を維持できるのか。官民の取り組みを調査するため、現地を取材した。

 大阪と言えば「商人の街」というイメージが強い。大阪市内の御堂筋にはオフィスビルが立ち並び、「キタ」と呼ばれる北部の梅田駅周辺では百貨店や地下街に買い物・観光客が群がる。昭和の香りを残していた南部の天王寺駅付近も再開発が進み、商業ビルでは日本一の高さ(300メートル)を誇る「あべのハルカス」がランドマークである。

20170630_03.jpgあべのハルカス

 大阪市の中心街から地下鉄に乗り、20分ほどで東大阪市に着く。市役所の付近を歩くと、頭上で近畿自動車道と阪神高速道路が交差し、トラックが激しく往来している。物流の大動脈を実感する。

20170630_04.jpg「物流の大動脈」が走る東大阪市内

 独立行政法人中小企業基盤整備機構が管理・運営する「クリエイション・コア東大阪」 に入居する「ものづくりビジネスセンター大阪(MOBIO)」を訪ねた。大阪府などが運営する、府内ものづくり中小企業の総合支援拠点である。MOBIOで中小企業支援に携わる、府商工労働部中小企業支援室ものづくり支援課製造業振興グループの鈴木洋輔主査(取材当時)を取材した。

20170630_05.jpg大阪府の鈴木洋輔主査(取材当時)

 鈴木氏によると、大阪の製造業には、東京都の情報通信機器、愛知県の輸送機械といった突出した産業はないが、歴史的にも強みを持ってきた産業があるという。

 まず、大阪は明治時代に官営模範工場が設置されるなど繊維産業が盛んで、大阪市内や大阪湾岸の泉州地域に繊維工業が集積している。また、化学工業は繊維工業と並んで大阪を代表する製造業の一つである。化学工業には医薬品製造業が含まれるが、大阪は伝統的に医薬品製造に強く、現在も規模の大小を問わず製薬企業の本社が集積している。

 さらに、この二つの産業と並んで、金属製品製造業と一般・精密機械器具製造業の高密度な集積が大阪市とその周辺市に広範囲に見られる。このほか、電気機械器具製造業が大阪市内と隣接する門真市や守口市、八尾市に集積している。門真市西部から守口市にかけての地域は大手メーカー本社などの立地によるものという。

 そして、大阪市の真東に位置するのが、今回取材した東大阪市域。ここには多様な加工技術を持つ6000社を超える企業群がある。

 東大阪市東部の奈良県生駒市との県境には生駒山があり、東大阪側は急峻な斜面。明治時代に当地の急流を活用し、水車を動力とする伸線業が発達した。主に線材を加工して鉄線などを製造する産業であり、それをさらに加工してネジなどの鋲螺(びょうら)の製造も始まった。

 大正初期に私鉄が大阪市と奈良市の間に開通し、沿線一帯に電力の供給が始まった。動力源はこれまでの水車から電動機に代わり、安定した生産活動が可能となった。中小企業も電気を使用できるようになり、東大阪地域へ工場が集積する環境が整った。

 そして、多様な産業が集積する契機となったのは、第二次世界大戦だった。戦時中、大阪市内の大阪城周辺には、大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう)があった。当時、これは東洋一の軍需工場。主に火砲の開発・製造を担い、特に金属加工に優れ、その技術は日本最高水準と称された。しかし、戦争末期には米軍の空襲の標的となり、工廠は壊滅する。大阪市内の空襲被害もあり、戦後の東大阪では工場が一層集積した。

歯ブラシからロケットまで...

 大阪のものづくり集積地の特徴は、産業の多様性である。東京は情報通信機械や業務用機械、愛知は輸送用機械(自動車)といった産業に特徴がある。これに対し、大阪には金属製品や機械類から石油・化学製品、プラスチックに至るまで、実に様々な産業がある。いわゆるフルセット型の産業集積であり、「歯ブラシからロケットまで」と呼ばれる所以である。

 このため、大阪の中小企業は大企業の力を借りなくても、多種多様な製品開発が可能だ。MOBIOの製品展示コーナーにも、中小企業の意欲的なアイディアを盛り込んだ商品が並んでいた。

 中でも、MOBIOが毎年認証する「大阪製」というブランド製品には、特に目を奪われる。これは、府内のものづくり中小企業が技術力と創造力を発揮して開発した消費財に与えられる認証である。「大阪のものづくり」というイメージの対外発信強化と、中小企業の製品開発を促進する狙いがある。

 例えば2016年度は、「電子基板を樹脂加工したスマホケース」(A)、「コイルスプリングの線香立て」(B)、「アルミ製壁掛けスマホホルダー」(C)、「オーガニックのトリートメントシャンプー」(D)―などが認証を受けた。

20170630_07.jpg2016年度「大阪製」認定品の例 (提供)MOBIO

 スマホケースは電子基板上のLEDが通信電波に反応して光る。線香立ては金型製作に使うコイルスプリングをオブジェのようにアレンジしている。いずれもエッジの利いたアイディアにあふれており、どれも購買意欲をそそられる。実際、大手百貨店のバイヤーから引き合いがあったり、雑誌で紹介されたりするなど、ブランド力向上に貢献しているという。

 東京・大田区のような金属加工が主体の産業集積地では、最終製品のアイディアは限られてしまいがちだ。大阪のように幅広い産業が集積していれば、その組み合わせから生み出される製品の可能性は無限と言ってもよいのかもしれない。

中小企業に「出会いの場」を提供

 しかし鈴木氏によれば、行政の振興政策面では多様な産業があるからこその難しさもあるようだ。例えば、金属加工に特化している産業集積地ならば、「金属加工業に対する補助金」のような行政からすればシンプル、企業や市民側からも分かりやすい施策がとれる。だが大阪では、特定の産業にターゲットを絞り込んだ施策は容易でない。

 そこでMOBIOでは、ものづくり中小企業の「変革と挑戦」に向けた「知る、やる、集まる」を支援することとした。府内の企業間で情報共有を促進し、中小企業で不足しがちな情報収集や営業力を補っていこうという戦略だ。

 例えば「MOOV,press」というフリーペーパー。府内のものづくり中小企業の中で「変革と挑戦」を実践するリーダーを見つけ出して取材し、紹介するという職員手作りの情報誌である。もちろん中小企業のベストプラクティスを広く紹介することが目的だが、職員が中小企業に対する理解を深め、支援手法を考える機会にもなっているという。

 また、「MOBIO-Cafe」という中小企業向けセミナーを年間約100回も開催している。重要なのは、セミナー終了後に必ず企業同士の交流会を開き、「出会いの場」を提供していること。企業と企業の「マッチング」に特に気を配り、新たなコラボレーションが生まれることを期待するわけだ。そして中小企業発の「大阪ブランド」をさらに開発していこうと努力しているという。

 このように大阪府では、層の厚いものづくり企業の集積を活かしたイノベーション創出などに力を入れて取り組んでいる。

鍛冶職人の伝統技術を受け継ぐ

 次に、大阪市の南に隣接し電車で30分ほどの堺市を訪問した。府内では大阪市に次ぐ都市であり、人口84万人の政令指定都市。旧石器時代から人が定住し、古墳時代には日本の中心地として栄えた。堺市役所の展望フロアからは、「大仙陵古墳」を望むことができる。この世界最大級の墳墓には、仁徳天皇が埋葬されていると伝えられる。

20170630_08.jpg世界最大級の大仙陵古墳

 当地の産業集積について、堺市産業振興局商工労働部ものづくり支援課の西浦伸雄課長補佐を取材した。

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堺市の西浦伸雄課長補佐

 歴史の長い土地柄だけに、堺のものづくりはやはり伝統工芸品に特徴がある。例えば、寺社仏閣が多かったために、線香や注染(染料を注いで染める製法)などの職人産業が名高い。

 刃物や鉄砲の鍛冶職人の存在も極めて重要だった。高度な技術から生み出される包丁や日本刀は各地で取引された。特にタバコ包丁はその鋭い切れ味から、江戸幕府が「堺極(さかいきわめ)」と銘打ち、全国にその名を知らしめた。

 堺市は自転車の部品製作の技術力が高く、国内外の自転車競技で知られる有力企業が立地する。これも実は、鉄砲などの鍛冶職人にさかのぼることができる。明治時代に海外から自転車が輸入されるようになり、その修理を担ったのが堺の鍛冶職人だったのである。

 もちろん、堺の産業は伝統工芸品だけではない。むしろ、機械製造業や金属加工業を中心とした一大工業地帯ともいえる。製造品の出荷額をみると、政令指定都市のランキングでは全国8位の3.5兆円。従業員一人当たりでは全国1位の411万円であり、二位の川崎市(289万円)を大きく引き離す。

20170630_10.jpg堺市大阪湾岸の臨海コンビナート

 これは、大阪湾の沿岸部に重厚長大型の大企業が集中し、臨海コンビナートを形成しているためだ。比較的規模の大きい中小企業が立地していることもある。そしてここでも、自転車部品製造で磨かれた「金属の切削や曲げ加工」といった技術が活きているのだという。

 東大阪や東京・大田と比較すると、堺の中小企業の特徴は一社当たりの従業員数が多いことだ。

 「一人親方」で事業を営む零細企業は後継者が見つからず、「引退=廃業」となりがちである。東京・大田はその典型例であり、「一人親方」の数が多いため、冒頭で紹介したように事業者数が急減してしまった。一方、堺でも事業者数の減少は起きているものの、規模の大きな事業者が多いため、そのペースは比較的緩やかだ。

 しかし、規模の大きな企業ならではの課題もある。最も深刻なのは人材の確保だ。堺は大阪市中心部に近いため、大企業志向の強い人材は堺市外に職を求めがちだ。このため、研究開発に力を入れたくとも、堺の中小企業にはなかなか大卒の人材が来てくれないという。

 また、住宅地の拡大も悩みの種だ。部品を大量生産している工場が多いため、必然的に稼働時間が長くなり、騒音も大きくなる。再開発によって住宅と工場との混在が進み、「住工近接」の問題も増える。住民との軋轢に耐えかね、近隣の自治体が開発中の工業用地へ移転を検討している中小企業もある。さらに隣県からも企業に移転を打診する激しい「営業攻勢」が掛かっているという。

IoT化「再チャレンジ」も視野に

 今後、堺市は中小企業に対する振興策をどのように展開していくのか。西浦氏に尋ねると、伝統工芸品と大規模な製造加工業を分けて考える必要があるという。まず、前者については「海外への展開を強化していきたい」と語る。特に包丁だ。これまでの官民の努力もあり、徐々に「堺の包丁」は海外でもネームバリューが高まっている。米ニューヨークなどでは日本の名産品として浸透しはじめた。

 実際、筆者がニューヨークに在住していた2015年頃、現地では日本食への関心とともに、和包丁の人気も高まっていた。マンハッタン・ブロードウェイ沿いの高級キッチン用品店には、高価な和包丁の一大コーナーが設けられており、何人もの米国人が真剣に見入っていたのが印象的だった。

 しかし、和包丁はメンテナンスフリーのステンレス包丁と違い、錆びやすいという短所がある。外国人が何も知らずに錆びさせてしまえば、「高いわりに使い物にならない」と批判され、ブームは一過性で終わるかもしれない。そこで堺市では、和包丁の適切な取り扱い方も含めて情報発信を強化し、「堺の包丁」のブランド価値をさらに高めていきたいという。

 次に、堺の産業の中核となる製造加工業については、やはり人材不足への対応が喫緊の課題である。そこで労働力を補うために、西浦氏は「ITを駆使することで、生産効率向上を後押ししていけないか」と考えている。

 実は、10年ほど前にICタグを利用して工場と工場を結び生産効率化を図る、今でいうIoT(モノのインターネット)のような取り組みに官民で挑戦したのだという。ネットワークで繋がった各工場の稼働状況を把握しながら、工場同士で生産を融通し合う仕組みである。しかし、当時はICタグのコストが高く、システムも想定通りにはうまく機能しなかった。このため、工場からは「電話で連絡をとった方が早い」と指摘され、残念ながら成功しなかった。

 しかし、近年はIoTデバイスやセンサー、通信技術が急速に発達し、コストも低下したため、工場のIT化がやり易くなった。このため、西浦氏は「かつてうまくいかなかった工場の生産性向上も実現できるのではないか」とIoTへの再チャレンジを視野に入れる。

 町工場のIT化推進については、前述したMOBIOの鈴木氏も興味深い課題を指摘していた。大阪府としても、中小企業の産業振興を図るため、IoTやAI(人工知能)といった「第四次産業革命」の動きを踏まえた支援が必要だと考えている。しかし、中小企業の工場向けにIoTの導入を試みても、大阪ではそれを実装できるシステムエンジニアをなかなか確保できないという。

中小企業の二代目、三代目社長の頑張り

 最後に西浦氏は「個人的な見解ですが」と前置きしながら、堺の中小企業と付き合う中で得た洞察を教えてくれた。それは、「二代目、三代目社長が頑張っている企業が元気に見えます」ということだ。

 西浦氏は「30代、40代の跡継ぎは文系出身だったり、理系でも父親とは少し違う道を歩んだりしながら、技術への考え方や捉え方が親と異なっています」と指摘する。その上で、「親が創り上げてきた技術をどうやって活用していくか、というセンスを持っている人たちが増えてきている気がします」と語る。

 例えば、ある金属加工事業所では、父親からなかなか理解を得られなくても、息子が部品を展示会に出しては数百枚の名刺を集めてくる。その上で、難しい仕事を積極的に受注し、従業員の技術水準を高め、会社を成長させているという。

 後日、堺の中小企業を取材してみると、まさにその典型に出会うことができた。例えば、二代目経営者がSNSを活用して企業間の輪を広げ、3DプリンターやVR(仮想現実)の導入を積極的にアピールし、企業価値の向上に繋げようとしている。必ずしも周囲から賛同を得られなくても、それを押し切ってなお貪欲に新たな技術を取り込み、企業経営に活かそうと挑戦を続けているのだ。

 このように、「中小企業の産業集積」と一口に言っても、その成り立ちや抱える課題は地域によって異なる。こうした中、行政の後押しの下、民間企業が活力を維持して成長を続ける、たくましい姿を大阪で見ることができた。各社は企業同士の連携や先端技術の活用を通じ、新たな価値を生み出そうと必死に取り組む。自らを律して不断の変革に挑まない限り、生き残ることはできない。大阪の中小企業群はそう訴えていた。

20170630_11.jpg有限会社藤川樹脂(堺市)の成形加工工場

 

(写真)筆者 PENTAX K-S2

大阪・ミナミ - リコー経済研究所記事

 毎日、東京には大量のヒト・モノ・カネが出入りする。その三つに必ず付随するのが情報であり、その流通量も膨大になる。その情報の発信源は今でも原則としてヒトである。ただし、将来どうなるかは分からない。モノ自体が発信源となるIoT(モノのインターネット)やAI(人工知能)が実用化段階に突入したからだ。実際、企業決算やスポーツ記録などの定型的な記事では既に、AIが人手を借りずに「執筆」を始めた。

 とはいえ、今のところはヒトが大半の記事を書いている。単にキーボードを叩くだけで記事が出来るわけではないからだ。その前に取材という、ヒトがヒトから情報を入手して分析する人間臭い行為が必要なのである。記者やジャーナリストと呼ばれるヒトが東京に集まり、情報の洪水の中からニュースを発見して発信する。

 東京の情報を求め、外国からも記者やジャーナリストがやって来る。その多くが仕事の拠点とするのが、東京・有楽町にある日本外国特派員協会(FCCJ)。香港衛星テレビ東京支局長の李海(りかい)さん(35)もその一人だ。流暢な日本語を武器にニュースを追いかけ、政治から経済、科学、文化までカバーする。超多忙な中でも時には東京を離れ、地方に隠れている日本の美しさも掘り出して発信している。

 李さんは1982年に中国四川省眉山市で生まれた。蘇軾(そしょく)あるいは蘇東坡(そとうば)と呼ばれる、11世紀に活躍した政治家の出身地。文人として「唐宋八大家」、書家では「宋の四大家」、さらに「北宋代最高の詩人」と称され、マルチな才能を発揮した大人(たいじん)である。

20170705_01.jpg香港衛星テレビ東京支局長の李海さん

 李さんは一人っ子政策の下で生まれ、教員の父と専業主婦の母によって大事に育てられたという。日本語が堪能だった叔父の影響で幼い頃から日本に興味を持ち、「ドラえもん」や「一休さん」といったアニメ番組をテレビで見ながら成長する。地元で日本人に出会う機会はまずなかったが、いつの間にか日本が「一番身近な外国」になっていた。地元の大学で日本語を学び始めたが、それに飽き足らず、日本留学を決断する。

 2001年に来日して日本語学校で猛勉強を重ね、香川大学法学部を経て名古屋大学大学院へ進学。ホームステイを通じて言葉と文化を吸収し、大相撲名古屋場所の記録係としてアルバイトができるほど溶け込んだ。「中国の法律用語の多くが日本語に由来する」ことを知り、19世紀末に日本に亡命して和製漢語を中国に導入した政治家でジャーナリストの梁啓超(りょうけいちょう)の研究に没頭する。文学博士号を取得し、300ページを超える「日本亡命期の梁啓超」(桜美林大学北東アジア総合研究所)を日本語で出版した。

 李さんはとにかく勉強家だが、座学だけでは満足しない。「人と会って話すことが趣味」と笑いながら、「伝播中華文化、傾聴世界声音」(中華文化を広め、世界の声に耳を傾ける)をモットーに東京を駆けめぐる。ネット時代になっても、いやだからこそニュースの目利きとして記者の仕事はますます重要だと思う。そういう意味で李さんのような若き国際ジャーナリストの台頭は頼もしいし、21世紀の蘇軾や梁啓超としてマルチな活躍を期待したい。

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(写真)平林 佑太 PENTAX K-50

 岡山県中西部の中山間地に位置し、広島県県境に接する高梁(たかはし)市。広域合併によって市域は約547平方キロに達し、東京・山手線の内側面積の8個分以上になる。だが、かつて5万人を超えていた人口は約3.2万人にまで減少した。少子高齢化が加速する一方で、「備中の小京都」は「歴史の証人」というべき観光資源に恵まれており、それを活かしたユニークな街づくりが官民一体で進められている。

20170703_01.jpg20170703_02.jpg高梁市の中心部


 JR伯備線・備中高梁駅から車で山間を上っていくと、40分ほどで吹屋(ふきや)ふるさと村(高梁市成羽町)に到着した。通りに足を踏み入れた瞬間、魔法にかかったかのように、「ゾクッ」というショックを受けた。ベンガラ色と呼ばれる赤銅色の鮮やかな屋根の古民家が、整然と軒を連ねていたからだ。時間がゆっくりゆっくり流れ、町並みは日本の「昔」をぎっしり詰め込む。まるでタイムカプセルの中にいるようだ。

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吹屋の町並み


 吹屋は標高550メートルの山間部にあり、陸の孤島のような集落。だが、町の歴史は1200年を超える。9世紀初め銅山が発見され、戦国時代は尼子氏と毛利氏が熾烈な争奪戦を展開した。江戸時代は幕府直轄の天領となり、住友財閥前身の泉屋などが銅を採掘。明治維新直後、岩崎弥太郎の三菱が銅山を買い取って経営を近代化し、吹屋は日本三大銅山の一つとして繁栄した。

20170703_08.jpg山神社の鳥居に残る「三菱マーク」


 それに加え、ベンガラ(「弁柄」「紅殻」とも表記)が吹屋に巨万の富をもたらした。硫化鉄鉱の良質で豊かな鉱脈が見つかり、それを元にベンガラと呼ばれる鮮やかな赤色、あるいは褐色をした顔料の生産が18世紀初めに始まったのだ。ベンガラは九谷焼や伊万里焼など全国各地の高級陶磁器の絵付けや重要建造物の塗装などに使われ、吹屋は国内最大の生産拠点となる。

 その結果、江戸時代半ば以降の吹屋には豪商が出現。彼らは豪邸の建築を競い合う一方で、当時では大変珍しいことに、町並みに統一デザインを導入した。すなわち、石見(いわみ=今の島根県西部)から赤褐色の石州瓦(せきしゅうがわら)を大量購入し、町全体をベンガラ色で染め上げたのである。画期的な民間主導の「都市計画」によって、吹屋に欧州のような煉瓦色の町並みが生まれたというわけだ。

 しかしながら、ベンガラ生産は1960年代半ばに途絶え、1972年には銅山も閉山。吹屋は二大産業を失い、過疎化の波に呑み込まれた。赤銅色の町並みの維持も難しくなったが、地元関係者の努力で今日まで受け継がれてきた。行政もサポートに乗りだし、岡山県は1974年に吹屋を「ふるさと村」に指定。国も重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)に選定して支援する。

20170703_09.jpg広兼邸は城郭のような外観、映画「八つ墓村」のロケも


 それでも、町並みの維持は並大抵ではない。人口減少・高齢化が加速し、集落の人口は300人を割り込んでいる。吹屋ふるさと村の「村長」を務める戸田誠さんは「町の会合に出るのは80歳代が主体。64歳のわたしなんか若者扱いですよ」と苦笑する。戸田さんは元教員。小学校校長を定年退職後、「育ててもらった吹屋の町並みをどうしても後世に残したい」と立ち上がった。今は観光ガイドから移住者の受け入れ、イベントの企画まで一手に引き受けている。さらに主(あるじ)を失った古民家を引き取り、夜でも楽しめる飲食店とゲストハウスに再生しようと汗を流している。

20170703_10.jpg戸田さんが再生を目指す古民家


 若年層の流出に悩まされてきた吹屋だが、最近は町並みに惹き付けられて移り住む人も現れている。小倉邦子さんもその一人だ。岡山県新見市で整体を仕事にしていたが、今は「下町ふらっと」でベンガラ染めに精を出す。「煉瓦色の町並みに一目惚れしてしまい、思い切って移住しました」―。小倉さんらはTシャツやストールなどを一つひとつ丁寧に、味わい深い赤銅色に染め上げていく。代表の仲田芳子さんは「完全に手作業だから同じものはありません。雨の日は染物を干せませんから、店はお休みです」―。ここで働く女性はみな若々しく、笑顔がキラキラ輝いていた。

20170703_11.jpg吹屋に移住してきた小倉邦子さん

20170703_12.jpg二人一組で染物を天日干し

20170703_13.jpg「下町ふらっと」代表の仲田芳子さん(左)と皆さん


 吹屋から市街地に下り、高梁市が誇るもう一つのキラーコンテンツ「備中松山城」に向かう。国から重要文化財の指定を受け、天守の現存する山城では日本で最も高い所(標高430メートル)にそびえる。秋~冬の早朝に運が良ければ、「雲海に浮かぶ天守」を見ることができる。外国人の間でもその幻想的な姿が人気を呼び、またNHK大河ドラマ「真田丸」でも映像が使われたため、来訪者は過去10年間で約2万人から約10万人に増えたという。登山道に入ると急坂が続き、息切れしながら「難攻不落の名城」を実感した。

20170703_14.jpg雲海に浮かぶ備中松山城 (提供)高梁市


 築城は1240年にさかのぼり、江戸時代後期からは備中松山藩の板倉氏が城主に。幕末、藩主の板倉勝静(いたくら・かつきよ)は将軍・徳川慶喜から筆頭老中として重用される。だがそのために明治維新では朝敵となり、禁固刑に処せられる。藩名も四国の伊予松山藩と紛らわしいため、高梁藩に改称されてしまう。

 その際、勝静の家臣で陽明学者の山田方谷(やまだ・ほうこく)の尽力により、備中松山城は無血開城となった。そのおかげで「雲海の山城」は破壊されずに生き延びたから、高梁市民は今も方谷のことを「先生」と呼び敬愛して止まない。

20170703_15.jpg山田方谷像(郷土資料館)

20170703_16.jpg備中松山城の天守


 1805年、方谷は武家から落ちぶれた農商の子として当地に生まれた。神童として知られ、4歳で大人顔負けの達筆を披露し、5歳になると新見藩の儒学者・丸川松隠の塾に入門。8歳で「論語」を読破していたという。京で朱子学、江戸で陽明学をそれぞれ学んだ後、備中松山藩に帰り、桑名松平家から養子に入った板倉勝静の教育係を任された。

 藩主になった勝静は方谷を現代の最高財務責任者(CFO)に当たる元締役(もとじめやく)に起用し、藩士の贅沢がたたって危機に瀕していた藩の財政改革を命じた。当時の備中松山藩の歳入は公称5万石でも実際は1.9万石にすぎず、大坂の商人から巨額の借金をしていた。このため方谷は「上下節約」の目標を掲げ、痛みを伴う大改革に着手。藩士の給与を削減したほか、宴会・供応・贈答・絹織物着用などを禁止した。自らの給与も中級藩士の水準まで引き下げたという。

 歳出全般にメスを鋭く入れる一方で、方谷は歳入を大幅に増やす成長戦略も立案・実行した。鉱山開発によって砂鉄を採り、備中鍬(くわ)に代表される農具や刃物などを生産。タバコや茶、柚子(ゆず)といった特産品を育て上げ、藩の専売収入を飛躍的に拡大したのである。方谷の改革着手からわずか8年で備中松山藩は借金10万両を完済し、逆に資金10万両を蓄えたという。方谷は全国から集まった門弟に改革の要諦を授け、その中の河井継之助は越後長岡藩に帰って藩政改革を断行した。

 また、方谷は西洋式の兵法を導入し、軍制改革も推進した。士農工商の身分制度を打ち壊して「農兵隊」を組織し、これが長州藩・高杉晋作が組織した「奇兵隊」のモデルになったという。購入した米国製の帆船は江戸への特産品輸送に使うだけでなく、有事の際は軍艦に転用できるようにした。こうした先進的な改革が実を結び、5万石の備中松山藩は20万石クラスの大藩に匹敵する軍事力を備えるようになった。【注】山田方谷生誕200年記念事業実行委員会「山田方谷物語」を参考にし、一部を引用させていただきました。

20170703_17.jpgご当地ゆるキャラ「ほうこくん」(高梁市役所)


 「備中の小京都」といわれるように、高梁市の中心部には方谷が活躍した時代の町並みが残されている。石火矢町ふるさと村の武家屋敷には、今も江戸時代の空気が漂う。このほか、築100年を超える尋常高等小学校の校舎(現郷土資料館)や醤油で財を成した豪商の邸宅(現商家資料館)、備中松山城が外堀とした紺屋川筋美観地区、映画「男はつらいよ」のロケ地となった薬師院...。コンパクトな市街地に「歴史の証人」がひしめき合う。

 まるでタイムカプセルのように、この街は多数の貴重なコンテンツを見事に維持している。その理由を尋ねると、高梁市の近藤隆則市長からは「揺れない安全安心な街なんです」という答えが返ってきた。地盤が安定しており、日本国内では大地震の発生する確率が最も低い地域の一つとされるのだ。実際、最大震度7の阪神・淡路大震災(1995年)や同6弱の鳥取県中部地震(2016年)の際も、高梁市は同3でとどまったという。「揺れない街」の知名度が向上すれば、リスク分散や事業継続計画(BCP)の観点から、産業界が高梁市に大きな関心を寄せるかもしれない。

20170703_18.jpg高梁市の近藤隆則市長

20170703_19.jpg武家屋敷

20170703_20.jpg商家資料館

20170703_21.jpg紺屋川筋美観地区


 山田方谷の発揮した進取の精神を受け継ぐかのように、近藤市長はユニークな施策を展開している。今年2月にはJR備中高梁駅に隣接する形で高梁市図書館をオープン。入館者は開館からわずか3カ月で20万人を突破し、年間目標を達成した。その秘密の一つが併設されたお洒落なカフェ。近藤市長は「スターバックスが国内出店した街の中で、最も人口が少ないのが自慢です」と笑みを浮かべる。図書館の運営をカルチュア・コンビニエンス・クラブに委託し、蔦屋書店や観光案内所もある。図書館は約12万冊の蔵書を抱え、年中無休で朝9時から夜9時までオープンしている。

20170703_2223.jpg高梁市図書館の外観と入口


 来館者のおよそ6割は倉敷や総社、新見などの市外から。例えば、倉敷市民が高梁市図書館で本を借りた場合、倉敷市内の図書館で返却できる。岡山県西部を流れる高梁川を共有する7市3町がスクラムを組み、共同で施策を展開しているからだ。観光や教育・子育て、農業など幅広い分野で発展を目指す「高梁川流域連携」は、市町境を越えて少子高齢化に立ち向かう行政の挑戦である。

 近藤市長によると高梁市の人口動態は現在、1日に2人亡くなり、2日に1人生まれる計算になるという。市は少子化・子育て対策に歯を食いしばって取り組み、移住者の受け入れも進めているが、人口減少にブレーキを掛けることは極めて難しい。このため、限られた資源を最大限有効に活用するため、市長は図書館に象徴されるように中心部でコンパクトシティ化を推進する。

 その一方で、広域合併前の各町の役場所在地も定住圏として維持し、ダイバーシティ(多様性)を尊重している。山間部の「買い物難民」を救うため、移動図書館車にパンや日用品を積み込んで販売したり、診療所の2階を高齢者向け住宅にしたり...。「すべてのお年寄りに市街地に住めと言うのは無理。とはいえ、広い市域全体に何でもかんでも用意するのも無理なんです」―

 近藤市長と同じ悲痛な叫びは全国各地から聞こえてくるし、これからは大都市圏でも人口減少が本格的に始まる。定住人口を増やせないなら、国内外からの観光客など交流人口を拡大するしかない。その点、高梁市は「吹屋ふるさと村」と「備中松山城」という二大キラーコンテンツを持ち、潜在能力は決して低くない。

 そして何よりも、「方谷の末裔」の人懐っこい開放的な市民気質が魅力である。撮影しながら街中を歩いていると、お年寄りや高校生が笑顔で「ご苦労さんです」「こんにちは」と声を掛けてくれる。全国を取材しているが、こういう街にはそうお目にかかれない。「ひと・まち・自然にやさしい高梁」を目指す市長の街づくりの展開に期待したい。

20170703_24.jpgご当地グルメ「インディアン・トマト焼きそば」
昭和50年代に小学校給食で大人気


(写真)筆者 PENTAX  K-S2

 リコーの主力商品は複合機(MFP)やプリンターである。その研究開発で培われてきた基礎技術を応用しながら、オフィス向け事業から新たな分野への展開を進めている。今回はその一例としてヘルスケア分野への取り組みを紹介する。

 インクなどを紙に吹き付けるために使われるインクジェットヘッドは、MFPやプリンターの基幹部品である。それは大きく分けると、①サーマル方式=インクに熱を加えて発生した泡を利用し、インクをノズルから押し出す②ピエゾ方式=圧電素子(電圧を加えることで変形する素子)の一種であるピエゾ素子を使い、インクを押し出す―という二つの方式がある。

ピエゾ方式イメージ図

20170626_01.jpg(出所)リコーHP

 このうちピエゾ方式を活用する独自のテクノロジーによって、リコーはヘルスケアの中でも製薬分野に貢献しようと研究開発を進めてきた。その技術がFDD(Fine Droplet Drying)である。最大の特徴は、ミクロンサイズの微細な粒子を均一に生成できること。インクジェットヘッドから、非常に細かな液滴を高頻度で噴射した後、超高速で乾燥させるのである。

 製薬分野へのFDDの応用は様々な検討が進められている。一例として、呼吸器疾患向けの吸入製剤への応用を紹介する。製剤で必要な微細な粒子を作る技術としては、これまでスプレードライが使われてきた。しかし、この方式では細かい粒子は出来ても、均一な大きさの粒子を作れない。そこでリコーはFDDで突破口を開き、世界で初めて均一かつ微細な粒子を製剤に応用する技術を確立したのである。

 製剤の粒子を均一にできれば、患者が吸入した薬を気管や肺、肺胞といった呼吸器の中の特定の場所に確実に届けられる。逆に粒子の大きさがバラバラならば、必要無いところにも薬が留まってしまう。そうなると十分な薬効が期待できないばかりか、副作用の可能性も高まってしまう。

FDD技術による粒子写真

20170626_02.jpg(出所)リコー研究開発本部 APT研究所



粒度分布の比較

20170626_03.jpg(出所)リコー研究開発本部 APT研究所

 だが、リコーはインクジェットに関して世界最高水準の技術を誇るものの、製薬については知見が十分ではない。そこで静岡県立大学薬学部薬物動態学分野の尾上誠良教授と共同で研究開発を進めている。産学の垣根を越える、異分野コラボレーションである。

 この共同研究は公益財団法人・静岡県産業振興財団ファルマバレーセンターのコーディネートにより開始され、静岡県長泉町のファルマバレーラボを研究拠点として実施している。静岡県では医療健康産業の推進を目的としたファルマバレープロジェクトに取り組んでおり、県東部地域に産学官金で構成されたクラスター形成を推進している。

ファルマバレーセンター全景

20170626_04.jpg(提供)ファルマバレーセンター

 「異分野コラボレーションには課題もある」と指摘するのは、この共同研究を担うリコー研究開発本部APT研究所NT開発室の森谷樹スペシャリストだ。「最初は薬学の基本的な言葉さえ理解できませんでした。例えば、『あどめ』と言われても何のことかサッパリ...」―。これについて、静岡県立大学側のパートナーである佐藤秀行助教は「『あどめ』とは吸収、分布、代謝、排泄の英語の頭文字をとったADMEのことです。薬学の世界では生体内運命としてよく使われている言葉ですが...」と笑みを浮かべる。

 佐藤助教は異分野コラボレーションの長所を次のように語る。「もし薬学の世界にいるだけならば、FDD技術にめぐり合い、それによって均一な微細粒子ができるという事実を知らなかったはずです。製薬に新たな世界が広がったのです」―

 今後の展開について、佐藤助教は「製薬業界は抗体医薬品をはじめとするバイオ医薬品の研究開発が中心になり、将来は大きな市場になる可能性があります。そのカギを握る技術の一つが粒子の均一性。均一であれば薬の吸収性が安定し、溶解性も一定となるからです」と解説する。また、バイオ医薬品は高価になるだけに、「高品質かつ高収率が求められ、その点でも均一性が重要になります」と語る。

FDD装置と佐藤秀行助教(左)森谷樹スペシャリスト(右)

20170626_05.jpg(写真)筆者

 今年5月の日本薬剤学会第32年会において、尾上研究室の学生がFDDを活用した製剤化について発表したところ、見事に最優秀発表賞を受賞した。今、製薬の産学から熱い視線を送られている。

 一方、リコーはFDDを製剤へ応用するに当たり、産業用のインクジェットヘッドの大幅改良に取り組んだ。産業用ヘッドよりノズル径を1/3小さくする一方で、ノズルの数を384から1536へ4倍も増やした。そうすることで1秒間に5.2億個もの液滴を噴射することが可能になった。この液滴に温風を当てて乾燥させると、ミクロンサイズの微細で均一な粒子ができる。

FDD装置イメージ図

20170626_06.jpg(出所)リコー研究開発本部 APT研究所

 今後の課題としては、高粘度の溶液に対する対応が指摘される。佐藤助教は「バイオ医薬品向けは高粘度の溶液の場合が多いため、それに対応できれば更に応用範囲が拡がる可能性がある」と期待を膨らませる。リコーにとって製薬は全くの異分野だが、畑違いの静岡県立大薬学部とのコラボレーションによってイノベーション(技術革新)を目指す。「人の行く裏に道あり花の山」というベンチャー精神こそが、リコーの原点だからだ。

 海水浴シーズンを迎えた。ところが、楽しい海に突如現れる「厄介者」がいる。そう、クラゲである(傘部が海中では月に見えることから「海月」とも表記する)。その代表格のミズクラゲは東京湾だけで毎年50万トンも発生するという。沢山のミズクラゲが浮いていれば、泳ぐのをためらう人も少なくないはず。ましてや、刺されてしまったら大変だ。

20170621_01.JPG海中を漂うミズクラゲ (提供)海月研究所

 ところが、それは筆者の大いなる誤解だった。クラゲから特殊な成分を抽出し、様々な製品を創り出す海月研究所(神奈川県川崎市)の木平孝治社長が次のように教えてくれたのだ。「ミズクラゲが刺すことはほとんどないし、刺されても人はほとんど痛みを感じませんよ」―



20170621_02.jpg

木平 孝治氏(きひら・こうじ)

 株式会社海月研究所 代表取締役社長 
 1954年生まれ、63歳。広島県出身。京都大学を卒業後、外資系製薬会社に入社。臨床検査分野の技術者として勤務した後、2000年に退職し独立。コンサルティング業務などを経て、2009年に株式会社海月研究所を設立。

(写真)平林佑太



 刺されると危険なのは実はカツオノエボシだ。本体は10cm程度でミズクラゲの1/3~1/4程度だが、10m以上の触手を海中で広げている。もし人間が刺されると激痛が走るため、通称「電気クラゲ」と呼ばれる。だが、電気クラゲに刺されても、近くに浮かんでいるミズクラゲを見て「犯人」と勘違いする人が多いらしい。「濡れ衣」を着せられる、ミズクラゲには同情したくなる。

 木平氏が創業した海月研究所はミズクラゲやその他の種類のクラゲを原料にしながら、抗菌・保湿作用があるとされる「ムチン」や、美肌効果が指摘される「コラーゲン」を抽出する。ムチンの商品化にはさらなる研究開発が必要なため、現在はコラーゲンを化粧品や研究用試薬などに加工して販売している。クラゲ由来のコラーゲンは、牛や豚などの哺乳類由来のものと異なり、BSE(牛海綿状脳症)などの感染症のリスクも無くて安全性が高いという。

 木平氏とクラゲの出会いは12年前にさかのぼる。技術コンサルタントとして活躍していた時、大学の後輩から相談を受けた。理化学研究所の研究員を務めていた彼は「クラゲからムチンを発見したので、事業化を検討したいのですが」というのだ。

 その2005年当時、日本海沿岸ではエチゼンクラゲが大量発生していた。毒性が強くて魚類の皮膚を溶かしてしまうため、漁業に深刻な被害をもたらす。木平氏の後輩はその「厄介者」を有効に活用できれば、社会問題が解決できるかもしれないと直感する。

 相談を受けた木平氏は、独立行政法人科学技術振興機構(現国立研究開発法人科学技術振興機構)の「大学発ベンチャー創出推進事業」に応募するよう提案した。翌2006年に首尾良く採択され、研究開発費の一部を支援してもらえることに。木平氏も理化学研究所に所属し、後輩と一緒に事業化に踏み出す。そして2009年4月、海月研究所を設立した。

 だが、事業化までに幾つもの壁にぶち当たった。最も困難な問題は、コラーゲンやムチンの材料となるクラゲの安定調達だった。クラゲは大量には流通していないため、仕入先を自ら開拓する必要に迫られたのである。前述したようにエチゼンクラゲは大量発生していたが、会社設立直前の2008年に激減。このため、供給量が不安定なエチゼンクラゲだけに頼ることはできなくなった。

20170621_03.JPG日本海で大量発生したエチゼンクラゲ (提供)海月研究所

 そこで木平氏が目をつけたのが、日本全国の沿岸のどこにでもいるミズクラゲ。調査を進めていくと、ミズクラゲが意外な場所に集まっている実態が分かった。それは電力会社の発電所だった。

 発電所では、電気をつくる過程で発生する蒸気を冷やすため、海水が利用される。その海水を汲み上げる取水口に、大量のミズクラゲが吸い寄せられて集まるのだ。このため、電力会社は取水口が詰まらないようミズクラゲを回収し、産業廃棄物として処理する。実際、富山県では2016年にミズクラゲの大量発生が原因で発電所が停止する事態が起こっている。

 だから電力会社にとって、「厄介者」のミズクラゲを引き取りたいという木平氏の提案は「渡りに船」。一方、木平氏も最大の経営課題だったクラゲ安定調達に目途が立ち、事業は軌道に乗り始めた。

 ところが、木平氏は再び難題に直面する。2011年3月の東日本大震災である。原子力発電所の事故によって、ミズクラゲの調達を依存していた東京電力に期待できなくなったのだ。木平氏は気を取り直して調達先の変更を考え、照準を漁師に合わせることにした。

 定置網漁で生計を立てる漁師にとっても、ミズクラゲは「厄介者」だったからだ。定置網にはシラスや小イワシに混ざってミズクラゲも入ってしまうため、その重みで網を引き上げられないこともある。ミズクラゲが大量発生すれば、漁師は船を出すことさえできない。そこで木平氏は漁師を集め、「ミズクラゲが多い日は構わず、ミズクラゲを獲ってきてほしい」と依頼した。漁業協同組合の設備を使えば、ミズクラゲの下処理もできる。漁師にもメリットが大きいこの提案は受け入れられ、今では多くの漁協から協力を取り付けている。

 最近はミズクラゲに加え、ビゼンクラゲの仕入先も確保した。有明海に面した福岡県柳川市一帯の海域では、食用のビゼンクラゲが生息する。そのクラゲ漁は長い伝統を誇り、競りも行われてきた。木平氏が柳川に通い出してから5年。ようやく最近、地元の企業から協力を得てビゼンクラゲの調達から下処理、輸送までの仕組みを整えることができた。

20170621_04.jpg高級食材のビゼンクラゲ (提供)海月研究所

 木平氏に今後の事業の展望についてうかがうと、意外な答えが返ってきた。「売れる商品を作ればそれで良いとは思いません。今の自分の役目は、資源としてのクラゲの価値を高めること。そして、その価値を次の世代につなげることです。それこそ、ベンチャー企業のあるべき姿ではないでしょうか」―。クラゲの安定調達に木平さんが汗を流してきたのは、クラゲを産業として発展させたい、その一心からなのである。

 「クラゲの新しい価値は、これからいくらでも生み出せる」―。木平氏がこう力説するように、クラゲ由来のコラーゲンは再生医療などにも応用される可能性があり、海外でも注目を集め始めた。もはやクラゲは「厄介者」ではない。もしかすると数年後には、世界中でクラゲ争奪戦が繰り広げられているかもしれない。

 「紙」の新聞や文庫本を読んでいる人はほぼ皆無。10人中7人はスマートフォンの画面に見入っていて、恐らくその半分はゲームに夢中――。最近の通勤電車の中はそんな感じではないだろうか。

 スマホの普及で、読書離れに拍車が掛かっている。全国大学生活協同組合連合会の学生生活実態調査(2016年)によると、「1日の読書時間が0分」の学生が全体の49.1%に達する。1日の平均読書時間は24.4分に過ぎず、スマホの平均利用時間161.5分に比べると、全くお寒い状況だ。

 インターネット空間に広がる無限の情報から、効率よく適切なものを見つけてくる能力はもちろん必要だ。だからといって、知識や教養を身に付けず、「グーグル先生」頼りで世の中を渡っていくことができるのだろうか。

 そこで今回は、人生総読書量25万冊を超える本読みの達人、文献学者の山口謠司・大東文化大准教授に「本物の知識をつける読書術」についてインタビューを行った。

 ―学生の読書離れに不安を感じませんか?

 読まない学生も多いけれど、読んでいる人は相当に読んでいる。江戸時代の庶民はほとんど本を読んでいないし、明治時代も5000部売れればベストセラー。普通は100部くらいしか刷っていません。本を読む人の割合は、いつの時代も案外変わっていないので、失望することはありません。

 ただ社会人として、良い人間関係を築き、自分のやりたい仕事するには、一定の評価を得る必要があります。そのためには、知性と教養と創造力を兼ね備えておきたいものです。これを身に付けさせてくれるのが「本」だと私は考えています。

 ―本が知性と教養の源になるということですね。

 授業などで「原因や理由があって、こうした結果になる」と教えられ、「なるほど!」と納得して身に付くのが「教養」。本を読み、色々なものを訳がわからない状態でいっぱい溜め込んでおくと、何かを経験したり誰かの発言を聞いたりした時に、「そうか!このことか!」と出てくるのが「素養」。本は直接的に知識や教養を身に付けるだけでなく、その人の素養になっていくものです。

 ググればすぐに分かるから、知識など不要というわけにはいきません。溜め込んでいたものが、いつか花開く時が来るのです。教養と素養はどちらも必要だと思います。

 ―本を速く読むコツがあるのでしょうか。

 速く読むことに価値はありません。本を読むとは、著者との対話です。著者がどのような視点を持ち、どう論理展開しようとしているのか。一緒に考えるつもりで読んでこそ、知的に成長できるはずです。速読するぐらいなら、少ない分量でも熟読するほうが有効です。

 熟読と同様に、音読も奨めたい。著者の言い分を鵜呑みにするのではなく、目・耳・口を総動員して著者と向き合うのです。また、目だけで読んでいると自分に誤魔化しが効くので、難しいところは斜め読みして、読めない漢字も適当に飛ばししまいます。黙読で「云々」が読めないことを自分に対しては誤魔化せても、人前で「でんでん」と読んでしまうと恥をかきます。音読によって、自らの読解力や漢字力を知る機会にもなります。

 ―読破した25万冊の内訳は?

 大東文化大学の書庫にある中国と日本の古典籍約7万冊は、全てに目を通して目録にしました。海外の大学で研究していた10年間で、欧州にある日本の古典籍約7万冊を読みました。それとは別に、さらに7万冊の本の目録の作成に携わりました。

 研究活動以外でも、1日に3~4冊は本を買い、図書館に行って本を読む生活を約30年間続けています。自然科学や歴史、小説、ビジネス、伝記、自己啓発、芸術、ノンフィクション、洋書も含めて幅広くなんでも読みます。三木清の「人生論ノート」など、大好きな作品は自宅にも研究室にも置いて、今でも繰り返し読んでいます。

 ―これまでに直接手にした本の中で最も興奮したものは何ですか?

 東洋文庫で研究していた際に、国宝の尚書(=四書五経のうちの書経)の実物を見ました。奈良時代に、中国から日本に持ち込まれたものです。

 尚書を開くと漢字に朱色の点がポチポチと打ってあります。漢文を日本語の語順で訓読するため、奈良・平安時代には、乎古止点(ヲコト点)と呼ばれるものが使われていました。漢字の周りや内部に点や棒線などの符号を付し、その符号の位置で助詞や助動詞などを表し、音節などの区切りを示して訓読の補助にしたのです。

 漢籍を読むために、当時の人が苦労し、格闘した様子がそのまま保存されていたのです。複製は見たことがあったのですが、「うわー、やっぱり本物は違うなぁ」とゾクゾクしました。

 私が専門とする「文献学」は、本の歴史をひも解く学問です。ただ単に、いつの時代にこういう本が作られた、この時代はこういう印刷方法だったというものではありません。その本が持っている意味やその時代に作られた意義を探り、そこから学ぶものです。

 本が書かれた背景には、当時の人たちが求めていた何かがあり、時代のメンタリティが反映され、社会の在り様が浮かび上がってきます。本は、ある意味、時代の共同幻想なのかもしれません。それが、缶詰のようにギュッと詰まっているのです。

 「尚書」の赤いポチポチは、「中国のことを知りたい」「中国の人たちが考えていることに近づきたい」という当時の日本人の思いであり、缶詰の中に詰まっているものをこじ開けたいと必死だったことが伝わってくるのです。

 ―電子書籍にはない、紙の本のメリットは?

 紙は「書き込める」ことが大きな魅力です。古典籍にも、昔の人々が読み進めながら、実にたくさんの書き込みをした跡が残っています。

 今の時代、電子書籍も上手く活用していくことが大切ですが、現時点では、電子書籍にはそれほど自由に書き込みができません。ただ読み流すのではなく、書き込むことで理解が深まる。それは、著者との対話であり、自分との対話でもあるのです。たった1行でも、短いサマリーを残しておくと、記憶に残りやすい。もちろん、時間が経てば記憶は薄れますが、メモを残した所は、何かのきっかけがあると思い出すものです。

20170620_01.jpg(写真)筆者


 山口 謠司氏(やまぐち・ようじ)

 大東文化大学准教授(文献学)
 1963年長崎県出身。大東文化大学文学部中国文学科卒業後、同大学院修士課程修了。博士課程1年の時に東洋文庫研究員、1989年より英ケンブリッジ大学東洋学部兼任研究員。フランス国立高等研究院人文科学研究所アジア言語研究センター大学院博士課程後期を経て現職。
 主な著書に「ん ― 日本語最後の謎に挑む」(新潮新書)、「日本語にとってカタカナとは何か」(河出書房新社)、「語彙力がないまま社会人になってしまった人へ」(ワニブックス)、「音読力」(游学社)など。2017年、「日本語を作った男 上田万年とその時代」(集英社インターナショナル)で第29回和辻哲郎文化賞受賞。
山口先生 個人HP


 「ヨシター!ハイ!」「ヨシター!ハイ!」

 梅雨の晴れ間、牛を操る勢子(せこ)の朗々とした掛け声が闘牛場に響き、力自慢の牛たちが角を突き合わせる。

 2017年6月11日、岩手県久慈市山形町の平庭闘牛場で開催された闘牛大会を観戦した。人間が牛と戦うスペインの闘牛とは異なり、日本の闘牛は「牛相撲」「角突き」と呼ばれ、牛同士の力比べだ。1トンにもなる巨体の牛が、角を突き合わせ、四肢を踏ん張り、ギリギリと押し合う様は迫力満点だ。

 結びの一番、東の横綱は土俵に入る前から、重低音で「ムオーーー、ムオーーー」と雄叫びを上げ、闘志をむき出しにした。激しくぶつかり合う熱戦に期待が高まる。ところが、いざ戦いが始まると、横綱は身体を横向きにして、相手と正面から向き合おうとしない。

身体を横にして相手に睨みをきかせる横綱相撲

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 ちょっと拍子抜けしていると、すかさず場内アナウンスで解説が入った。正面から向き合わないのは、勝負から逃げているわけではないという。相手の目の前で、自らの身体の大きさを誇示し、横目で睨みを効かせながら、「こっちが格上だぞ!」と無言の圧力をかけるのだ。角を突き合わせ、身体をぶつけ合ってエネルギーを消耗しなくても、「ああ、こいつには到底かないそうにないなぁ」と、相手方の戦意を喪失させることができればそれで十分。かくして結びの一番、一度も角を合わせることなく「引き分け」に終わった。平庭闘牛は、原則としてすべての取り組みが「引き分け」で、敢えて勝負を着けない。

 闘牛の歴史は、江戸時代までさかのぼると言われる。当時、牛は荷役や農作業のための大切な労働力だった。三陸の沿岸部で炊いた塩を、北上山地を越えて内陸の雫石や盛岡まで運び、内陸からは沿岸部へ穀物などの食料を運ぶために牛が使われていた。牛方は、何頭もの牛を引き連れ、険しく長い山道を超えていかなければならない。角突きによる力比べで最も強かった牛を先頭に立たせると、群れを御しやすくなり、安全に荷物を運ぶことができたそうだ。怪力で田畑を耕し、荷物を運んでくれる牛は、家族の一員であり、大切な労働力でもあった。角突きによって序列をつけることはあっても、傷つけ合い、消耗させるのが目的ではなかったのだ。

1トンの牛がぶつかり合うと迫力満点

20170615_02.jpg

 自動車が普及し、道路が整備され、荷役に牛を使わなくなって久しい。今では、闘牛は観光資源の一つだが、それでも「引き分け」の伝統文化は脈々と受け継がれている。

 若い牛でも500キロ前後、大関・横綱クラスになれば1トンにもなる。角を合わせる場面は迫力満点。牛の激しい息遣いが伝わり、身体がぶつかり合うドスンという振動から牛の本気度が分かる。牛を操る勢子たちの表情も真剣そのものだ。会場全体の空気が熱くなり、盛り上がってきたところで引き分けが告げられる。

 特に、初土俵を踏む2歳牛、戦歴の浅い3歳牛は、角を突き合わせ、少しでも力量の差が見てとれると、アッという間に引き分けとなる。若い牛はまだ遊び盛りなので、戦う気がない場合でも、「いいよ、いいよ、無理はさせるな」とすぐに引き分け。闘牛場が「自分の力を発揮するための素晴らしい舞台」と思えるように、「負け癖をつけない」「怖くて嫌いな場所と思わせない」ように配慮しているというのだ。

 勝負が着かなくても、観客に不満はない。引き分けた後、闘牛場を一周して退場する際には、どちらの牛も会場から温かな拍手が送られる。

 傷を負い、意気消沈してしまうほどの闘いはしないなという知恵。
 次への成長につなげる引き分けの美学。
 優勝劣敗の人間社会が忘れかけた知恵が、平庭闘牛には残されているような気がした。

(写真)筆者

 大阪府のほぼ中央に位置する堺市は大阪市の南に隣接し、両市の中心地の間の距離は電車で30分ほどだ。府内では大阪市に次ぐ都市であり、人口84万人の政令指定都市だ。

 歴史も長く、旧石器時代には既に人が定住していたほどだ。特に古墳時代には日本の中心地として栄えた。当時建造された大小100基超の百舌鳥古墳群が有名であり、中でも仁徳天皇が埋葬されていると伝えられる「大仙陵古墳」は世界最大級の墳墓とされる。

 大阪湾に面して地域的に海運の便が良かったため、鉄などの鋳造や金属加工産業が勃興し、中世以降には鉄砲や刃物の一大産地となった。このため、流通を担う「堺商人」と呼ばれる商人(あきんど)が隆盛を誇った。

 現在でも沿岸部には重厚長大産業の大企業が集中し、臨海コンビナートを形成している。また、関連産業に従事する中小企業も密に集積する。

 この堺市で、中小企業の有志が「堺の共同展示場」という取り組みを行っている。「共同展示場」といっても、会場を設けて製品を展示しているわけではない。ポータルサイトにSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を活用し、そこを経由して外部の視察希望者に対し工場見学や取材先の案内を行っている。インターネットを駆使した、いわば「バーチャルな展示場」なのである。

 この堺の共同展示場を運営する有限会社スイサクの櫂谷(かいたに)雄一郎代表取締役と有限会社藤川樹脂の藤川勝也代表取締役を取材した。藤川氏によれば、堺の共同展示場は、堺の中小企業の先進的な取組みを広く発信し、さらに盛り上げるための手段の一つとして始めたのだという。その陰にあるのは、堺の中小企業群の将来に対する強い危機感だ。

 一社目に訪問したのが、スイサクである。同社は、「ラスク」という多孔質金属材料を製造販売している。ラスクは櫂谷氏の父である先代社長が、関西大学在籍時に研究開発したものだ。鋳鉄などの金属を特殊成形したもので、見た目は変哲ない金属片である。しかし、一般的な金属と異なり高い振動吸収・吸音といった特性を持っており、それを活かし、コンサートホールや音楽スタジオの壁面などに利用する。遮音の効果もあり、また音の残響を調整して音楽をより美しく聴かせることもできるという。

 しかもゴムのような柔らかな素材と異なり、金属性だから耐久性も高い。新幹線の騒音対策として線路下に敷設された実績もあるという。また近年では、「工場の騒音・振動対策の提案」にも取り組んでいる。工場の機械類の床面にラスクを設置するだけで騒音や振動が軽減されるため、騒音苦情も減少し、工作機械の精度も向上する。住工近接・混在の問題が深刻な中小企業の産業集積地には非常に有効な手立てである。

鉄板(左)、ラスク(中)、ゴム板(右)の衝撃吸収性能の比較実演

20170526_01.jpgスイサクの櫂谷雄一郎代表取締役

20170526_02.jpg 二代目社長である櫂谷氏は、ラスクの一層の販路開拓に取り組んでいる。同社は先代の時代、高い技術力を持つ「知る人ぞ知る」企業として、人の繋がりを中心に商売に励んでいた。しかし櫂谷氏は、社長を継いでから展示会やインターネットなどを通じ、自社の技術を多方面へと積極的に発信するようにしているという。自らも技術畑の出身であるために「必ずしも得意だったわけではない」と語るが、どうすれば自社の製品を万人にわかりやすくアピールできるかを手探りで考えてきたそうだ。例えば「連振り子」を使った鉄板とラスク、ゴム板の振動伝達の比較装置(写真)も同氏のアイディアである。

 その努力の甲斐もあって、前述の「工場の騒音・振動対策」事業は全国から問い合わせがあるという。2015年には、「大阪ものづくり優良企業賞2015・優良企業賞」も受賞した。

 二社目に訪問したのが、有限会社藤川樹脂である。同社の事業は樹脂成形加工であり、大型射出成形機を使い、長らく梱包資材等の受注生産を行ってきた。しかしながら、取引先企業から発注される個数は必ずしも安定しておらず、中国など低コストの生産地も台頭するから、競争にさらされている。

藤川樹脂の成形加工工場

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 しかし、ここで屈しないのが二代目社長の藤川氏だ。次々と新規事業のアイディアを実行する。例えば、待受型の樹脂成形の受注生産だけではなく、自社でも製品開発に乗り出した。そのために、大手メーカーを引退したデザイナーやCAD(コンピューター支援設計)の熟練者を新たに雇用した。そうして、製品の量産だけではなく、デザインや開発といった工程までも対応し、より高い付加価値を生み出そうというのだ。

藤川樹脂の受注した加湿器型除菌装置

20170526_04.jpg その成果の一つが加湿器型除菌装置である。これは、次亜塩素酸水を微細な霧にして拡散し、空間を除菌するもの。一般的な加湿器は次亜塩素酸水を用いると金属部品が塩素によって腐食してしまう。そこで、同社はこれまで培ってきた成形加工の技術を活かし、パーツのプラスチック化でこの問題を解決した。

 藤川氏の取組みは製品のデザインや開発への対応だけではない。VR(仮想現実)といった先進的な技術に着目し、製品展示会への利用を提案している。通常、展示会では製品の実物大モックアップを作り来場者に説明する。しかし、インフラ設備に関わる製品では、モックアップも数十メートルに及ぶ巨大なものとなり、製作費も非常に高額だ。そこで藤川氏は、モックアップを製作せずに3D CADでVRを作成し、VRゴーグルで来場者に体験してもらえるのではないかと提案する。

 さらに同社は、中小企業庁の「ものづくり補助金」を利用し3Dプリンターを導入した。当初は最新設備の活用方法に悩むこともあったものの、現在では同社の工場設備の治具を作成して生産工程を改善している。今後は、他社に対しても3Dプリンターを活用しサービスを提案する意向だ。

藤川樹脂の藤川勝也代表取締役

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 このように櫂谷・藤川両氏は経営環境の変化を鋭敏に感じ取り、新たな事業を開拓すべく積極的な姿勢を見せる。「待受型」で会社が安定していた時代は過ぎ去ってしまった。だからこそ、高い投資であったとしても、最新設備の導入や新分野から社員の採用、ウェブや展示会での宣伝活動といった努力を怠らない。

 しかし、必ずしも皆から理解を得られるわけではない。例えば父である先代社長との意見の相違だ。先代の頃、幾度かの経営環境の悪化はあっても、基本的に需要は拡大していた。そのような経験を経て、「取引先との良好な関係を築き、効率的な受注生産に努める」「取引先の要望に応えるべく、研究開発に励む」ことが最優先であると先代は考える。一方で、新たな取組みに高いコストを投じた二代目の努力も、一朝一夕で実を結ぶものではない。時には父子の溝も深まる。

 だが、時代が変われば企業の経営も変わる。実は櫂谷・藤川両氏の出会いも、「中小企業におけるSNSの活用」の勉強会だったというのが興味深い。堺市は比較的広い地域に企業が点在しているため、同じ地域であっても横の繋がりはそれほど深くない。そこに現れたインターネットによるネットワーキングの仕組みが地元企業同士を結びつけ、外部へのSNSによる共同発信の取組みに繋がったのだ。

 何にも取り組まなければ「ジリ貧」。そこに強い危機意識を抱いているからこそ、周囲の目にもめげずに新しいものを取り込む努力を怠らない。二代目社長の中小企業変革に向けた挑戦が堺を元気にするに違いない。

堺の共同展示場 Facebook

(写真)筆者

 先日、東京・銀座にある本社での仕事を終え、銀座の中央通りをぶらり歩いてみた。相変わらずの人の多さ、そしてその人種の多様さに圧倒される。中国からの爆買いツアーは沈静化傾向にあるようだが、最近はそれ以外の国からの旅行者を見かけることも増えている。

 日本政府観光局(JNTO)によれば、2016年に日本を訪れた外国人旅行者数は前年比22%増で過去最多の2403万9000人(2017年1月時点の推計値)だったという。国別では、中国や韓国、台湾などの東アジアからの観光客が過半を占めているが、インドネシアやベトナムなどの東南アジアからの観光客も増加傾向にある。「国際化」が一段と進んでいるようだ。

20170515_03a.jpg(出所)日本政府観光局

(注)2016年の値は2017年1月時点の推計値

 この中央通りでも、ひときわ賑わっているのが4月20日に開業した「GINZA SIX(ギンザ シックス)」だ。GINZA SIXは、2013年6月に閉店した松坂屋銀座店の跡地と近隣2街区を合わせたエリア一帯を再開発して誕生した。売り場面積4万7000平方メートルを誇り、高級ブランドなどのファッションや雑貨、飲食など241のショップが入居する銀座エリア最大の商業施設である。地下に「観世能楽堂」があるほか、屋上庭園も「江戸の庭園文化」をコンセプトに日本文化をアピールする拠点となっている。

GINZA SIX

20170515_01.jpg写真提供:GINZA SIX リテールマネジメント株式会社

 さらにGINZA SIXの1階には、「観光バス乗降所」が併設され、観光客にとって銀座の玄関口の役割を果たしている。実は、これまで銀座には観光バスの乗降場所や、待機のための駐車場が整備されていなかった。このため、目抜き通りである中央通りや晴海通りに乗降や路上待機のためのバスが多数停車し、交通渋滞を招いていた。こうした問題を解消するため、中央区が観光バス乗降所を設置したというわけだ。

観光バス乗降所

20170515_02.jpg写真提供:GINZA SIX リテールマネジメント株式会社

 渋滞解消のカギとなるのが、バス乗降所と近隣の駐車場を連携させた、「ショットガン方式」と呼ばれる仕組みだ。乗降所の利用は予約制で、観光バス1台あたり利用時間は15分に制限されている。観光バスはこの時間内に観光客を下車させる。観光客がショッピングなどを楽しんでいる時間は、近隣の駐車場に移動して待機。出発の時刻になると、再びバス乗降所に移動して観光客を乗車させ、次の目的地に向かう。乗降所付近に滞留するバスをなくすことで、渋滞の原因を失くすのが狙いだ。

 ショットガン方式は元々、JR千葉駅東口周辺の客待ちタクシーによる渋滞問題の解消のために、2006年に国土交通省が実施した社会実験で注目された。渋滞緩和に一定の効果があることから、その後様々な地域で導入が進んでいるという。

 海外からの観光客への「おもてなし」の質が向上する一方で、見落とされがちな観光地で生活や仕事をする人々への気遣い。今回のような取り組みが盛んになり、観光客がそこで生活する日本人とともに快適に過ごせる空間が増えていけば、いよいよ日本も「観光先進国」と呼ばれるようになるのではないだろうか。


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