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高齢者就労にはICTセーフティネットが不可欠

=映画「ノマドランド」で考えたデジタルデバイド対策=

2021年05月25日

社会・生活

研究員
館山 歩

 2021年4月25日に東京都に3度目の緊急事態宣言が発令される直前、筆者は1年半ぶりに映画館に足を運んだ。観たのは米映画「ノマドランド」(クロエ・ジャオ監督、2020年)。ジャーナリストであるジェシカ・ブルーダー氏のノンフィクション「ノマド 漂流する高齢労働者たち」(鈴木素子訳、春秋社、2018年)を映画化した作品だ。

写真(出所)版元ドットコム

 主人公は夫を亡くした60代の女性。リーマン・ショックのあおりで職も住居も失ってしまい、止むなくキャンピングカーに荷物を積み込んだ。車上生活者すなわち現代のノマド(=遊牧民)となり、過酷な季節労働の現場を渡り歩いていく。

 巨大ネット通販企業の配送倉庫では集配作業を担い、一日の歩行距離が20キロ以上にも及ぶ。このほか、凍てつく寒さに震えながらの農作物収穫、国立公園でのトイレ清掃...。こうした過酷な短期雇用の現場を渡り歩きながら、さまざまな人との出会い、交流、そして別れ。このサイクルが繰り返される。米国西部の壮大な自然を背景に、ストーリーは静かに進行する。家や家庭、自分らしく生きるとは一体何なのか。主人公は自分の内面と向き合いながら、たくましく生きていく。

スマホやFBを使いこなす高齢ノマド

 映画には、このような高齢ノマドがスマートフォンやフェイスブック(FB)を使いこなすシーンが出てきた。それに関心を持ち、もっと詳しく知りたいと思い、前述の原作を手に取った。

 すると、ノマドはノマド向けウェブサイトで求人広告をチェックしたり、車上生活のための知識や知恵を共有したりする実態が分かった。例えば、最安値のガソリン価格や安全に停泊できる大型スーパー駐車場、快適な居住空間を作り上げるためのDIY術などだ。多種多様な情報を仲間同士で交換しながら、実にたくましく、したたかに生きているのである。

 映画の中では、末期の肺がんで余命宣告された主人公の友人が、かつて訪れたアラスカの渓流の景色を「死ぬ前にもう一度見たい」と願い、別れを告げて旅立つ。やがて主人公のスマホに、彼女から動画が送られてくる。そこでは、崖一面のツバメの巣から、何千羽も一斉に飛び立っていく...。彼女が最期の希望をかなえた喜びが、小さなスマホ画面を通じて伝わってくる。主人公はその思い出の景色を追体験し、友人が抱いてきた希望を共有することで、生きていく上での誇りやエネルギーを受け取っているように筆者には感じられた。

 スマホを活用した情報通信技術(ICT)は今や、こうした高齢ノマドの世界でも生存に不可欠なライフラインとなっている。そればかりか、人とつながり、交流を通じて人の温かみを感じ、生きていく上で希望を失わないための「心のセーフティネット」としても機能しているのだ。

ネット証券の口座開設に大苦戦

 米国と日本では社会構造が異なるため、この映画で描かれた世界が日本にそのまま当てはまるとは考えにくい。しかし、日本でも高齢就業者の増加を考えると、就労環境・社会保障制度の整備と合わせ、使いやすいICTサービスの普及が非常に大切だと今回痛感した。いわゆるデジタルデバイド対策である。

 先日、筆者はスマホからネット証券の口座開設にチャレンジしたが、かなりの苦戦を強いられた。まず、本人確認のための書類のアップロードがうまくいかない。次に、提出書類に不備があるとの通知が届き、最初からやり直しを求められた。さらに個人情報の登録においては、なぜか勤務先(=リコー)の郵便番号が受け付けてもらえない。また、リコーは「金融機関」として認識されてしまう。サイト上でマニュアルを探し、関連項目やQ&Aを片っ端から確認しても埒(らち)が明かない。最終的にはコールセンターに電話して何とか解決できたが、完了するまでに1週間近くもかかってしまった。

 たまたま大型連休中だったから、最後までやり通せたものの、普段であれば間違いなく途中で放り投げていたはず。筆者はICTについて疎いほうではあるが、それでもスマホは10年以上、インターネットは25年以上使い続けている現役世代。もちろん年齢で一概に決め付けられないが、仮にリタイアした高齢者がチャレンジした場合、独力で口座開設までやり切れる人が一体どれぐらいいるのだろうか。

デジタルデバイド対策は時代の要請

 令和2年版「通信利用動向調査」(総務省)の結果を見ても、インターネットを利用していて「不安を感じる」と「どちらかといえば不安を感じる」の回答を合わせると75.0%に達する。調査対象12歳以上だから、仮に高齢者に限って実施したらこれを上回るのは確実。高齢になるほどICTリテラシーの低い人の割合が増え、デジタルデバイドも拡大するのが現実だ。

 「人生100年時代」と呼ばれて久しい。生活のため止むなく働き続けるケースもあれば、健康のため、あるいは社会との接点を持ち続けるためなど、高齢者が働く理由は人それぞれだろう。いずれにしても、デジタルデバイド対策は時代の要請なのである。

 映画の中で主人公は、代用教員をしていた時の元教え子から「先生はホームレスになったの?」と質問される。それに対し、彼女は「いいえ、ホームレスではなく、ただのハウスレスよ」と毅然として答えた。「ハウス」という物理的なスペースは失ったが、「ホーム」つまり人とのつながりや希望、誇り、心の拠り所まで失ったわけではないと教えたかったのだろう。

 今後も新しいICT機器やサービスが生まれ続け、デジタル社会の変革はこれから一層加速していくだろう。最も大切なことは、技術オリエンテッドな機器・システムではなく、あくまでも技術を人に合わせることだろう。つまり、人間オリエンテッドなサービスの提供が求められるのだ。

 だれもが簡単に安心して使えるライフラインや、「心のセーフティネット」をどのように構築していくか。だれ一人取り残されることなく、社会の全員が誇りと希望を失わずに生きていけるデジタル社会。その実現に向け、わたしたちは本気で取り組まなければならない。

館山 歩

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