Main content

「海洋深層水」夢が膨らむ南海の離島/久米島町(沖縄県)

コンパクトシティが地方を救う (第18回)

2019年04月08日

地域再生

副所長
中野 哲也

 沖縄県・那覇空港からプロペラ機で30分足らず、エメラルドグリーンの海とサンゴ礁に囲まれた久米島に到着した。1月中旬なのに気温は20度を優に突破。東京から着てきたコートは出番を失い、半袖ポロシャツで取材を始めた。クルマで40分も走れば一周する小さな島の中に、琉球王朝時代前からの歴史が凝縮。このためシャッターを切りたくなるスポットが、連続して目の前に飛び出してくる。そして何より島の人々の心が温かく、飛び切りの笑顔が美しい。たった数日歩いただけで、久米島町観光協会の素敵なコピー「実家よりあったかい、ゼロになれる島」を実感した。

 久米島空港から島めぐりを始める場合、時計回りがお勧めのコースだという。それにしたがって進むと、まずは「ミーフガー(女岩)」に出会う。波と風が長い時間をかけて巨岩の中央部に大きな穴を開けた「作品」で、子宝に恵まれるというパワースポット。合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む子どもの数)が高い沖縄県にあっても、久米島のそれは特筆すべき2.31に達する。全国の市区町村別ランキングでも伊仙町(鹿児島県・徳之島=2.81)に次ぐ全国2位であり、全国平均(1.38)を1近くも上回る(厚生労働省「平成20年~平成24年人口動態保健所・市区町村別統計」)。

20190408_01.jpg子宝パワースポット「ミーフガー」

 次に向かった「比屋定(ひやじょう)バンタ」は、風光明媚な久米島でも有数の展望台である。バンタとは沖縄の方言で絶壁を意味する。東シナ海はコバルトブルー、サンゴ礁内側の海はエメラルドグリーン。両者のコントラストは見ていて飽きることがなく、時の経過を忘れてしまう。

20190408_02.jpg比屋定バンタ

20190408_03.jpg

久米島の東岸から橋を渡り、奥武島(おうじま)に到着。奇岩群が幾何学模様を形成する「畳石(たたみいし)」に目を奪われた。数百万年前の火山噴火の際、マグマが地下でゆっくり冷えて収縮し、五角柱あるいは六角柱のひび割れが生じたという。五角形や六角形の石が隙間なく並び、巨大な亀の甲羅のように見える。自然による造作物とはとても思えない、不思議な空間である。また島南部のトクジム自然公園には、地元の人が「鳥の口」と名付けた奇岩がそびえる。鳥というより、怪獣ゴジラのように見えたが...

20190408_04.jpg畳石(奥武島)

20190408_05.jpg鳥の口(トクジム自然公園)※A-HDR撮影

 「イーフビーチ」は久米島を代表する砂浜海岸。キメが非常に細かくて真っ白い砂浜が2キロも続き、日本の渚百選の一つに数えられる。遠浅で海水浴に最適なほか、各種マリンレジャーの拠点になる。

20190408_06.jpgサラサラの砂浜が2キロ続く「イーフビーチ」

 そして久米島最大の見どころが、船で約30分の沖合にある「ハテの浜」。全長7キロに及ぶ真っ白な砂浜だけの無人島である。真っ白い砂、エメラルドグリーンの海、鮮やかな青い空...。それ以外には何も存在しない。まるでSF映画を撮影するスタジオのようであり、何とも贅沢な光景が眼前に広がる。「東洋一美しい無人島」というキャッチフレーズも、大げさではないように思う。

20190408_07.jpg東洋一美しい無人島「ハテの浜」

 久米島の魅力はこうした自然の美しさだけでない。その歴史も、訪れた人の心をつかんで離さない。久米島町観光協会によると、久米島が初めて登場する歴史書は8世紀後半の「続日本紀」。その中に珠美(くみ)の人が奈良の都を訪れたという記述がある。「くみ」とは沖縄の方言で米を指すため、珠美=久米島と考えられている。実際、古代からこの島は岩の間から湧き出る泉に恵まれため、稲作が盛んに行われていた。

20190408_08.jpg 14世紀ごろ、按司(あじ)と呼ばれる豪族が、久米島の山間に幾つものグスク(城)を築き上げた。ただし、按司が元々の島民を支配し始めた時期や、沖縄本島のどの地域からどんな目的でやって来たのかは分かっていないという(久米島博物館)。久米島で最も高い宇江城岳(310メートル)の山頂に築かれた宇江城城(うえぐすくじょう)跡からは、眼下に南国の絶景が広がる。

20190408_09.jpg宇江城城跡からの絶景

 グスクは石垣に囲まれた施設。「城」の字を充てることが多いが、必ずしも戦闘のための城ではなく、祭祀などにも使われていたらしい。その実態は依然としてベールに包まれている。その石垣の工法は元々、加工していない自然の石や岩を積み上げる「野面(のづら)積み」だったが、やがてブロック状に加工した石を使う「切り石積み」に発展した。隙間なく積み上げられた堅固な石垣からは、往時の建築技術力の高さがうかがえる。その材料はサンゴが生み出す琉球石灰岩であり、比較的柔らかくて細工しやすいため、アーチ形の門なども造られた。

20190408_10.jpg野面積み(宇江城城跡)

20190408_11.jpg切り石積み(旧仲里間切の蔵元跡)

 15世紀後半、中国から久米島に養蚕技術が伝来し、絹織物の製作が始まった。それが久米島紬(つむぎ)であり、ここから沖縄本島や奄美大島などへ伝えられたという。糸を紡いだ後、島内に自生する草木で染め、さらに泥で染める。それを洗って乾燥させてまた泥で染める―という工程を数十~百回も繰り返す。そしてすべて手で織り上げ、ようやく反物が出来上がる。

20190408_12.jpgすべて手作業「久米島紬」
(久米島紬の里「ユイマール館」)

 16世紀に入ると、沖縄本島を統一した尚氏が久米島の按司を討伐。この島は琉球王朝の政治体制に組み込まれる。琉球王朝が中国や朝鮮半島、東南アジア、日本との交易を活発化させる中、久米島は貿易船の寄港地として大いに繁栄した。当時、島民の精神的な支柱は君南風(ちんべー)と呼ばれた最高神女であり、各集落で祭祀を執り行うノロ(神女)を統括していた(「久米島町の文化財」久米島博物館)。

20190408_13.jpg君南風の祭礼殿「君南風殿内(ちんべーどぅんち)」

20190408_14.jpg 17世紀以降、久米島は島津氏が治めた薩摩藩の支配下に入る。当時、島内は間切(まぎり)と呼ばれる行政単位に区分けされ、それを地頭代が治めていた。このうち上江洲(うえず)家は代々、具志川間切の地頭代を務めた名家。今も15代目が、18世紀半ばに建築された屋敷を大切に維持している。上江洲艶子(うえず・つやこ)さんに取材すると、「これからも一族のだれかが守っていってくれるよ、なんくるないさ(=大丈夫だよ)」―

20190408_15.jpg上江洲家住宅

20190408_16.jpg上江洲艶子さん

 明治維新(1868年)以降、琉球王国は琉球藩、さらには沖縄県になり、久米島も歴史に翻弄され続ける。第二次大戦末期の沖縄では大規模な地上戦が展開され、沖縄県民約15万人が尊い命を奪われる中、久米島出身者も1101人が犠牲になった(久米島博物館)。戦後、久米島を含む沖縄県は1972年に日本へ返還されるまで、米国政府の統治下に置かれた。米国統治時代、島内では米ドルが決済通貨であり、共栄タクシー代表者の嘉手苅正さん(かてかる・ただし=65)は「高校時代、稲刈りを手伝うと親から5セントもらい、それでコーラを1本買えました。映画は10セントだったかな...」と少年時代を振り返る。

20190408_17.jpg共栄タクシー代表者の嘉手苅正さん(天后宮で)

 久米島は仲里村と具志川村に分かれていたが、平成の大合併で2002年に久米島町が誕生した。面積は約64平方キロで東京・JR山手線の内側面積とほぼ同じ。人口は1950年代のピーク時には1.6万人を数えたが、その後は出生率が高くても過疎化の波に抗し切れず、今ではその半分の7846人(2019年2月末)。なお、リコージャパンは久米島町と2017年5月、地方創生に関する協定を締結。両者は①賑わいの創出②産業や観光など地域振興③庁舎内におけるさまざまなコスト縮減―などについて連携・協力している。

 前述したように久米島では稲作が盛んだったが、今では水田はほとんど姿を消した。返還後の日本政府の減反政策によって、農家が稲作からサトウキビ栽培へ転換したからだ。毎年1~3月がサトウキビ出荷の繁忙期。牧志実(まきし・みのる)さんは50年以上、機械を使わず手作業で大量のサトウキビを収穫してきた。「毎日、朝8時から夕方まで刈り続け、年明けから3月まで一日も休みはありません」と苦笑い。元気一杯で今年83歳とは思えない身のこなしである。

20190408_18.jpgサトウキビ手刈りを続ける牧志実さん

 新垣清昻(あらかき・せいこう)さんは、キャリア40年を超える三線(さんしん)の職人。中国伝来の三弦から発展した三線は三味線よりも歴史が古く、胴にニシキヘビの皮を張るなどの特徴がある。新垣さんも元気なシニアで、「三線を弾きながら大声で歌うのが一番の健康法です」―

20190408_19.jpg三線職人の新垣清昂さん

 また、久米島の豊かな水は特産品の「泡盛」(タイ米を原料とする蒸留酒)を生み出した。米島酒造では若き蔵人の嘉数昂斗(かかず・あきと)さんが秘伝の手造り工程を丁寧に説明してくれた。「天気や気温、湿度などによって泡盛の味は微妙に変わってしまいます。だから1年365日、交代でだれかが必ず蔵を見守るんです」―

20190408_20.jpg米島酒造の嘉数昂斗さん

 歴史に翻弄されながらも、古き良き伝統を守り続けてきた久米島町。だが、決してそれに固執しているわけではない。最先端技術の研究開発にも挑戦し、新たな産業の振興によって島の人口や雇用を増やそうと奮闘している。その切り札が海洋深層水である。島の東部に建設された沖縄県海洋深層水研究所を訪れ、来場者対応を担当しているマーティン・ベンジャミンさんから説明を受けた。米国アリゾナ州出身で英語教師として来日。「空気や水を含めて自然が素晴らしい」という久米島の魅力にはまり、テレビのお見合い番組で知り合った日本人女性と結婚した。

20190408_21.jpg海洋温度差発電実証設備のマーティン・ベンジャミンさん

 この研究所は久米島の沖合2.3キロ、水深612メートルの地点に取水口を設置。そこから国内最大の1日1.3万トンの深層水を汲み上げる。海洋の深層部には太陽光が届かないため、水温は極めて安定。久米島の場合、表層水は22~29度の幅で変動するが、深層水は年間を通じて9度程度、すなわち家庭用冷蔵庫の中の温度と変わらない。

 また、深層水には植物の生長に必要な窒素やリン、ケイ酸などの無機栄養塩が豊富に含まれ、その含有率は表層水の十数倍に達する。逆に細菌などの微生物や水質悪化の原因となる有機物などの含有率は、表層水の100分の1~1000分の1しかない。

 こうした深層水の三つの特長(低温性、富栄養性、清浄性)は、久米島町の水産業や農業などに大きな付加価値をもたらした。例えば、クルマエビは沖縄県が日本最大の産地。その種苗生産に冷たくて清浄な深層水を使うことにより、健康で安全な稚エビを育成できるようになった。南西興産では170万~180万匹ものクルマエビを養殖中。場長の城田誠さんは「お歳暮需要が入る年末が最も忙しくなります。価格変動の激しさが悩みの種ですが...」という。

20190408_22.jpg南西興産の城田誠さんと養殖クルマエビ

 沖縄特産でプチプチした食感が人気の海ブドウ。その養殖にも深層水は貢献する。従来は夏場の海水温上昇がネックになっていたが、久米島海洋深層水開発は表層水に深層水をブレンドすることで、水温を栽培に最適な24~25度に制御している。場長の仲道司さんは「まだまだ謎の多い生き物。歩留まりにはばらつきがあり、50%ならまずまずです。生長を見ているとほんと可愛くて、大きく育ってくれると嬉しくなります」と話す。

20190408_23.jpg久米島海洋深層水開発の仲道司さんと養殖海ブドウ

 深層水は牡蠣(かき)の陸上養殖の実証実験も成功に導いた。その高い清浄性によって、「全く当たらない生牡蠣」が食卓に上る日も夢ではない。久米島では気温が高くて夏場は収穫できなかったホウレンソウも、深層水で土壌を冷やすことによって通年栽培が実現した。このほか化粧品や飲料水、塩など深層水の応用範囲は実に幅広い。これまで深層水のプロジェクトには総額60億円が投じられたが、既に年間25億円もの経済効果をもたらしているという。

 だがそれでも、深層水は潜在能力を未だ十分には発揮していない。その一つに海洋温度差発電があり、沖縄県ではその実証実験に取り組んでいる。その大まかな仕組みは、①蒸発器=日光によって温められた表層水の熱を使い、沸点の低い液体(アンモニアや代替フロン)を蒸発させる②発電機=①から発生するガスの圧力によって、タービンを回して発電する③凝縮器=深層水でガスを冷やし、元々の液体に戻す―になる。

20190408_24.jpg海洋温度差発電の実証設備

 夢のような再生可能エネルギーだが、実はそのアイデアは140年以上も前の世界的に有名なSF小説の中に隠されていた。ジュール・ヴェルヌが「海底2万里」の中に登場させた潜水艦ノーチラス号の動力として、表層水と深層水の温度差を利用した発電が候補に挙がっているのだ。

 この古くて新しい技術を使い、久米島町はエネルギーを自給し、産業振興と雇用創出を目指す「久米島モデル」を実現しようと動き始めた。大田治雄町長にインタビューを行うと、「深層からの取水量を引き上げ、2030年には久米島で消費するエネルギーをすべて再生可能エネルギーで賄えるようにしたい」と熱く語ってくれた。「沖縄は観光資源に恵まれているが、それに頼るだけでよいのか。地域創生には新たな産業の振興も欠かせないはず。『久米島モデル』を確立し、それをODA(政府開発援助)として発展途上の島嶼国を支援したい」と夢を膨らませている。

 まずは、深層からの取水量を現在の日量1.3万トンから10万トンに引き上げたいが、それには80億円規模の資金が必要になる。人口8000人を切った町にとって、それは一般会計の規模を超える途方もない金額。国や沖縄県、民間企業などからの支援や資金提供が不可欠であり、大田町長は理解と協力を求めて飛び回る。琉球王国の末裔(まつえい)の志(こころざし)は久米島の空のように高く、その海のように透き通っていた。

20190408_25.jpg久米島町の大田治雄町長

20190408_26.jpg(写真)筆者 PENTAX  K-S2

中野 哲也

TAG:

※本記事・写真の無断複製・転載・引用を禁じます。
※本サイトに掲載された論文・コラムなどの記事の内容や意見は執筆者個人の見解であり、当研究所または(株)リコーの見解を示すものではありません。
※ご意見やご提案は、お問い合わせフォームからお願いいたします。

※この記事は、2019年3月29日発行のHeadLineに掲載されました。

戻る