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世界文化遺産「熊野古道」で街を再生/田辺市(和歌山県)

コンパクトシティが地方を救う (第14回)

2018年04月09日

地域再生

HeadLine 編集長
中野 哲也

 人間の定義は様々だが、ある一面では「目標を定める動物」と言えるのではないか。古代から高い目標を掲げ、その実現に向けて努力を重ねてきたからだ。神の救いを得たいという一心から、長く厳しい道を歩き続ける巡礼もその一つである。

 紀伊半島南部にある熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)は二千年前から神々の宿る聖地とされ、巡礼者は幾多の困難を乗り越えながら、三つの大社を目指した。平安時代から京都の皇族・貴族の熊野詣が盛んになり、12世紀の後白河上皇は33回も行ったと伝えられる。女人禁制が当たり前の時代でも、熊野の神々は非常にオープンであり、男女や浄不浄、貴賤を問うことなく巡礼者を受け入れた。このため江戸時代の庶民の間では、熊野詣が伊勢参りと並んで熱狂的なブームを起こした。

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20180409_02a.jpg世界文化遺産に2004年登録

 その参詣道が「熊野古道」と呼ばれ、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に登録された。現在の田辺市(和歌山県)の市街地は「口熊野」と称され、古くから聖地の入口として栄えてきた。熊野古道には幾つかのコースがあり、そのうち熊野の聖域は中辺路(なかへち)の滝尻王子から始まる。熊野古道沿いには、「王子」と呼ばれる御子神が祀られた休憩所が数多く設けられていた。滝尻王子に一歩足を踏み入れると、突然、空気が重くなり、背筋が伸びるようなオーラを感じた。ここから先、巡礼者は神の救いを信じ、ひたすら険しい山道を進んでいく。

20180409_03a.jpg聖域の入口「滝尻王子」

20180409_04a.jpg険しい山道が続く熊野古道

 このように田辺市には長い歴史があり、数多くの英雄や文化人を生んできた。中でも市民が誇りとする三大偉人が、源義経に仕えた豪傑・武蔵坊弁慶、孤高の科学者・南方熊楠(みなかた・くまぐす)、合気道の開祖・植芝盛平(うえしば・もりへい)である。

 JR紀伊田辺駅の改札口を出ると、まずは精悍な弁慶像に目を奪われる。歌舞伎や講談の人気キャラクターで今なお抜群の知名度を誇るが、その実態は謎に包まれている。田辺が彼の生誕地であるという説が有力とされており、市内には弁慶ゆかりのスポットも少なくない。

20180409_05a.jpg弁慶像(JR紀伊田辺駅前)

 地元の人から「権現さん」と親しまれてきた鬪雞(とうけい)神社は熊野三山の別宮的な存在であり、2016年に世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加登録された。その境内には弁慶とその父とされる湛増(たんぞう)の親子像がある。

 熊野三山を統括する別当を務めていた湛増は源平合戦の際、どちらに味方すべきか苦悩する。そこで神の意思を確認するため、本殿の前で平家の紅と源氏の白を象徴する鶏を7回闘わせた。すると白鶏が全勝したため、源氏側につくことを決断。熊野水軍の精鋭を壇ノ浦(山口県)に送り込み、源氏の勝利に大きく貢献したという。このため今も、鬪雞神社は「勝運導きの神様」として御利益があるとされる。

20180409_06a.jpg世界文化遺産「鬪雞神社」

20180409_07a.jpg弁慶と湛増の親子像

 このほか、八坂神社には幼少期の弁慶が腰掛けたため、中央部が窪んだという不思議な石がある。地元の人は男の子が生まれると、この石に座らせ、立派な子に育つようにと願いを掛けた。また、田辺市庁舎の前の弁慶松や産湯の井戸など多くの伝説が残る。

20180409_08a.jpg弁慶腰掛の石

20180409_09a.jpg弁慶産湯の井戸

 熊野の大自然は、「100年早かった智の人」(国立科学博物館)も生み出した。南方熊楠、その人である。世界最高水準の学術雑誌といわれる英国のネイチャーに51本の論文が掲載され、個人投稿では今なお最多記録といわれる。

 明治維新前年の1867年、熊楠は現在の和歌山市内で誕生。鍋屋を営んでいた父が山積みしていた鍋や釜を包む反古紙(ほごがみ=書き損なった書道用紙)に囲まれ、それに書かれていた文字や絵をむさぼり読んで育つ。和漢三才図会という当時の百科事典全105巻をはじめ、各種書籍や新聞を手当たり次第に読み、書き写し、記憶した。まさに神童である。

 熊楠は和歌山中学に進学後、植物採集に精を出す。とりわけ博物学で才能を発揮し、英語の書籍を参考にしながら、「動物学」と題するオリジナルの教科書を書き上げた。鼻が高かったため、「てんぎゃん」(=天狗さん)というあだ名を付けられる。本人も気に入り、写本の表紙に天狗の絵を描いていた。

 1883年、上京して神田の共立学校(現開成高校)に入学。英語を教えていた高橋是清(後の首相、二・二六事件で暗殺)が南方を「ナンポウ」と呼んで生徒を笑わせていたという。翌年、大学予備門(現東京大学教養学部)に進む。同級生には夏目漱石や正岡子規らがいた。熊楠は「授業など心にとめず、ひたすら上野図書館に通い、思うままに和漢洋の書物を読みたり」と読書・筆写に明け暮れたため、落第して和歌山に帰郷する。

20180409_10a.jpg南方熊楠(南方熊楠顕彰館の所蔵写真)

 だが、熊楠は故郷にじっとしていられない。西洋の最新の科学思想を学びたいとの思いを募らせ、1887年に渡米してミシガン州立農学校に入学。米国人学生との衝突などで退学した後も、植物採集のためにフロリダやキューバまで足を延ばし、地衣類(藻類と共生する菌類の一種)の新種を発見した。

 1892年、熊楠は大西洋を横断してロンドンに上陸。大英博物館の幹部に才能を見いだされ、同館を学問の拠点とする。前述したようにネイチャーへの投稿を始め、東洋の科学思想を紹介するデビュー作「東洋の星座」などを発表した。「さまよえるユダヤ人」など比較民俗学に関する論文も執筆している。また、中国の革命家・孫文と親交を深めるなど、グローバルな人脈を築き上げ、和歌山の神童はいつしか超人になった。

 しかし、実家からの仕送りが滞り、困窮した熊楠は1900年に帰国を余儀なくされる。1904年に田辺に居を定め、熊野の植物採集に精を出す。結婚して子を授かり、波乱万丈の人生もようやく落ち着く...。という展開にはならなかった。

20180409_11a.jpg熊楠を物心両面で支えた平沼大三郎

 明治政府が推進していた神社合祀政策(一町村一社に整理統合)に、熊楠は猛然と噛み付いたのである。合祀された神社の森が伐採されると、熊楠が研究対象とする微小な生物の棲み処や、神社を中心とする共同体の風習が破壊されてしまうからだ。熊楠は「エコロジー」という言葉を使い、生態系を守るべきだという思想を説いて回った。環境保護運動の先駆者なのである。

 熊楠は運動の先頭に立ち、新聞に神社合祀を批判する投書を続け、民俗学者・柳田國男らに協力を求めた。1910年、合祀推進の官吏に面会を要求した際、家宅侵入の容疑で拘留されてしまう。運動も挫折し、熊楠は在野の碩学として研究生活を再開する。

 自宅の柿の木から新種の変形菌(=アメーバ状でバクテリアを食べて増殖する動物的な性質と、胞子を作って増殖する植物的な性質を併せ持つ生物)を発見し、「ミナカテラ・ロンギフィラ」と命名された。1926年に「南方閑話」など著書3冊を出版。太平洋戦争開戦直後の1941年12月、74年間に及ぶ「巡礼」のような生涯は幕を閉じた。

20180409_12a.jpg熊楠が愛用した眼鏡

 田辺市中屋敷町の一角に、熊楠が病没するまで四半世紀を過ごした居宅が丁寧に保存されている。顕微鏡を覗きやすくするためなのか、書斎の机の脚2本は短く切られ傾いていた。居宅の隣には「南方熊楠顕彰館」があり、年間6000~7000人の熊楠ファンが国内外から訪れる。熊楠が遺した2万5000点に及ぶ書籍や日記、手紙、論文などを収蔵し、こうした膨大な資料をデータベース化する作業を続けている。

 南方熊楠顕彰会事務局の西尾浩樹さんがこの超人を分かりやすく解説してくれた。「熊楠の頭の中には数えきれないほどの引き出しがあり、その中にデータが完璧に整理されていました。現代風に言えば、『人間ウィキペディア』でしょうか」―。田辺市内の高台にある高山寺(こうざんじ)で、熊楠はこよなく愛した熊野の山と海に囲まれて眠り続けている。

※南方熊楠については、「世界を駆けた博物学者 南方熊楠」(南方熊楠顕彰会)を参考にさせていただきました。

20180409_13a.jpg熊楠の書斎と傾いた机

20180409_14a.jpg南方熊楠邸の母屋

20180409_15a.jpg南方熊楠顕彰館の収蔵資料は2万5000点

20180409_16a.jpg南方熊楠や植芝盛平の眠る高山寺

 田辺が生んだ偉人の三人目は植芝盛平である。1883年に富裕な農家に生まれ、幼少時から武術に励んだ。前述した神社合祀反対運動に共鳴し、熊楠に協力したという。北海道開拓に参画した後、武術修行の旅に出て1922年に独自の合気武術(合気道)を確立した。合気道は相手と勝敗を決するのではなく、「お互いに切磋琢磨し合って稽古を積み重ね、心身の錬成を図るのが目的」(公益財団法人合気会)。優劣を競い合わない「和合の心」が世界的に評価され、今では約130カ国に合気道関連の組織・団体があるという。盛平も熊楠と同じく高山寺に眠る。

20180409_17a.jpg植芝盛平像(田辺市扇ヶ浜公園)

 田辺の旧市街を歩いていると、随所で「歴史」と出会い、文化の香りがする。御三家の一つ紀州徳川家の重臣が治めた城下町であり、風情のある商店や家屋も少なくない。熊野の神々のオープンな精神を受け継ぐのか、開放的で親切な市民気質を感じる。

 田辺観光ボランティアガイドの会に頼むと、個人旅行であれば無料で1時間案内してくれる。会の立ち上げから参加している、澤井民子さんもその一人。干しシイタケの卸売りを行う傍ら、月6回もガイドを引き受ける。「色んな方にお会いできるから、楽しくて仕方ないんです。40歳代の男女が仲間に加わり、後継者の育成も始めました。でも、『引退してくれ』と言われない限り、ガイドを続けますよ」―

20180409_18a.jpg随所で「歴史」と出会う旧市街

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20180409_20a.jpgボランティアガイドの澤井民子さん

 自然・歴史・文化に恵まれた田辺市だが、戦後の高度成長期以降は若年人口が都会に流出し、過疎化に苦しんできた。2017年12月末の人口は約7.5万人。1990年の約8.6万人からおよそ1.1万人減少した。この間の2005年に近隣2町2村と広域合併、面積は約1027平方キロと近畿地方の市では最大になる。少子高齢化が加速する一方で市域が拡大し、JR紀伊田辺駅前の商店街はシャッターも目立つ。

20180409_21a.jpg田辺駅前商店街

 当地で喫茶店「べる・かんと」を営んで40年になる大野貴生さんに聴くと、来店客は1977年の開業時に比べると一割程度にまで激減したという。最盛期はパートタイマーを含め10人雇用していたが、もはや人を雇う余裕はない。今は大野さんが独り朝9時30分から夜9時まで切り盛りする。人口減少に加えて郊外の大型店舗に人が集まるようになり、さらに市街地でもコンビニがコーヒーの販売を始めるなど、大野さんのように一杯一杯に魂を込める喫茶店には逆風が吹き荒れ続けている。

 「高速道路が開通して京阪神方面から2~3時間に短縮されたが、田辺を通過する人・自動車が圧倒的に多い。点から点だから面にならず、経済が活性化しない。駅前もタクシーの駐車場と化しており、人が集まる広場にしてほしい」―。大野さんは切実な表情で訴える。

20180409_22a.jpg喫茶店「べる・かんと」大野貴生さん

 田辺市の真砂充敏(まなご・みつとし)市長に街づくりの展望を聴いた。「市民から『市長は子どもに田辺に帰って来いと言うけど、仕事が無いやないか』とよく言われてしまう。観光を中心にいかに職を創っていくかが最大の課題」という。現在4期目の市長は厳しい制約条件の下でも、様々な手を打ってきた。

20180409_23a.jpg田辺市の真砂充敏市長

 例えば、2006年に田辺市熊野ツーリズムビューローを設立し、観光情報の発信機能を格段に強化した。第二種旅行業の認可を取得し、旅行契約の取り扱いもスタート。カナダ人職員の採用などで外国からの個人旅行者のニーズにもキメ細かく対応し、年商は3億円を超えた。国内外の旅行者・旅行業者・消費者と、地元の観光協会・行政・NPO法人・商工会議所・農林水産業者の間に入り、地域全体のプロデュースを担う。こうした努力が実を結び、熊野古道は海外の観光サイトで人気が高まり、田辺市における外国からの宿泊客数は2012年の約3400人から2016年には3万人を突破した。

 インターネットを活用し、地元農家も民泊に乗り出した。梅やミカンを生産していた高垣幸司さん・千代子さん夫妻は長男の元樹さんが後を継いでくれたことから、2008年に農家民泊「未来農園」を始めた。幸司さんは英語と格闘しながら、海外サイトから宿泊予約を受ける。今では年間数百人を受け入れ、その半数が熊野古道お目当ての外国人という。当初は米欧からの客が主体だったが、最近は中国や香港、台湾、チリ、イスラエルなど多岐にわたる。タイからは僧侶を含めて22人が一度に宿泊したという。

20180409_24a.jpg高垣幸司さん・千代子さん夫妻、長男の元樹さん、孫の杏実ちゃん

 田辺特産の梅干しも外国人は苦手と思われがちだが、徐々に人気が高まっているという。そのトップブランド「南高梅」を生産する「みなべ・田辺の梅システム」は2015年に世界農業遺産に認定された。幸司さんは「梅干しにはまだまだ未解明の効能がたくさんあるはずなんです」と南高梅の未来に期待を膨らませる。

 食卓には漁船を持つ幸司さんが釣ってきた新鮮な魚が並ぶ。客が望めばクルーズに連れて行くし、食後は得意のギターを演奏して国際交流に努める。夫妻は誠心誠意もてなすから、疲れ果てるのではと心配になるぐらいだ。だが、幸司さんは「定住人口の減少は避けられず、(外国人旅行者などの)交流人口を増やさないと田辺はやっていけません。将来、この街を『世界のタナベ』にするのが私の夢です」と熱く語り続ける。

20180409_25.jpg「未来農園」の自慢は新鮮な魚料理

20180409_26a.jpg高垣さん夫妻とミカン農園

 真砂市長は中心部市街地の再生にも乗り出した。国土交通省から「景観まちづくり刷新モデル地区」の指定を受け、「国内外からの旅行者が弁慶や南方熊楠、さらには植芝盛平ゆかりのスポットを楽しく歩いて回れるようにする」と意気込む。広大な市域を抱えるが、中心市街地にはコンパクトシティの考え方を導入するようだ。JR紀伊田辺駅のクラシックな駅舎はできる限り維持しながら、駅前広場を言わば「インスタ映え」するよう整備。老朽化した武道館を移転・新築し、合気道の「聖地」としてもPRしていく。

20180409_27a.jpgクラシックなJR紀伊田辺駅舎

 だがいくらハードを整備しても、街づくりの担い手がいなければ、絵に描いた餅で終わってしまう。そこで田辺市は「たなべ未来創造塾」を創設し、若きビジネスリーダーの育成も始めた。5年後には塾の卒業生50人が街の課題解決の先頭に立ってくれることを期待している。

 国内外からの旅行者という「交流人口」だけでなく、真砂市長は田辺市と接点を持つ他自治体からの「関係人口」の拡大を目指す。堺市(大阪府)とは友好都市提携し、「堺市民に田辺に来てもらうだけでなく、セカンドハウスを構えてもらえれば」という。このほか、合気道で縁のある自治体とも関係を強化していきたいという。

 真砂市長は「住民票の登録者数(=定住人口)だけで街の勢いをカウントするのではなく、田辺と関わる人を増やすことで、市民が豊かに暮らせる方策を考えていく」と強調する。実現が難しい定住人口の増加政策を打ち上げるのではなく、いかにして交流・関係人口を地道に拡大していくか。こうした地に足の付いた施策こそが、地方再生の成否を握るカギになる。田辺市にはそのフロントランナーになってほしい。

20180409_28a.jpgコバルトブルーがまばゆい田辺湾

(写真)筆者 PENTAX K-S2

中野 哲也

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※この記事は、2018年3月30日発行のHeadLineに掲載されました。

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