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生物と人の多様性「東洋のガラパゴス」 奄美市(鹿児島県)

コンパクトシティが地方を救う(第7回)

2016年07月01日

地域再生

HeadLine 編集長
中野 哲也

 空港から南西へ約400キロ、約1時間で奄美大島に到着した。ちょっと歩くと、タイムカプセルで保存されているかのように、太古からの自然が手付かずで残されたまま。この地域にしか生息していない動植物が数多く、「東洋のガラパゴス」と称される。また、「シマ」と呼ばれる集落が島内に点在し、個性豊かな文化を築いて守り続けている。生物も人も「多様性」を最大限に尊重しながら、奄美市(人口約4.4万人)は少子高齢化時代に立ち向かう。

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サンゴ礁の美しい土盛海岸

支配者が変遷 按司~琉球~薩摩~米軍~日本復帰

 「あまみ」は1300年を超える長い歴史を持ち、日本書紀の657年の項に「海見(あまみ)島」という記述を確認できる。大化の改新(645年)の頃、既にこの地域は独特の海洋文化を築いていた。中でも、サンゴ礁に棲むヤコウガイ(夜光貝)は真珠のようにキラキラと輝き、奈良や京都の貴族に珍重されたことから、本土との貿易が拡大した。また、遣唐使が日本~中国を往復した航路のうち、南島路は奄美大島を経由した。中国の僧、鑑真(がんじん)もこの航路を使い、両眼失明という苦難を乗り越えて日本へ渡って来た。

奄美市の中心・名瀬地区

あやまる岬から太平洋を望む

 古代、奄美大島では按司(あじ)と呼ばれる首長が群雄割拠し、それぞれが集落を治めながら、貿易商人としても活躍した。中央集権の必要な農業ではなく、貿易が経済の柱だったため、島全体を統一する王や政権は登場しなかったらしい。ところが、尚巴志(しょうはし)が琉球(沖縄)を統一すると、奄美大島へ侵攻してきた。征服された奄美は15世紀半ば~17世紀初めの約150年間、琉球王国の支配下に入る。

 中国との貿易で繁栄していた琉球王国に対し、島津氏の薩摩藩が出兵する。1609年、その途中で奄美大島を征伐し、事実上の直轄地として治めた。薩摩藩は巨額の借金を抱えて財政危機に陥り、奄美大島の農民にサトウキビ栽培・黒糖生産を強制し、厳しい搾取を続けた。薩摩から赴任・監視する役人と少数の大土地所有者の下で、家人(やんちゅ)と呼ばれる人々が奴隷のように働かされていた。

 奄美料理を代表する「鶏飯」(けいはん)は当時、薩摩役人をもてなすために作られたという。なお、西郷隆盛は幕末の一時期、薩摩藩に命じられて奄美大島に潜居し、島妻の愛加那(あいかな)との間に二人の子供をもうけている。

奄美料理を代表する「鶏飯」

伝統を守る手作り黒糖(水間黒糖)

西郷隆盛の上陸碑

島内に点在するサトウキビ畑

 明治維新に伴い、奄美大島が鹿児島県の一部になった後も、島民は貧しい生活を余儀なくされた。第二次大戦終戦の翌1946年、米軍は北緯30度以南の奄美大島や沖縄などを統治下に置き、日本本土との渡航を全面禁止。奄美大島では食料品や日用品が絶対的に不足し、島民はやむなくソテツの実などで飢えをしのいだという。

 にもかかわらず、米軍政府はインフレ対策を名目に配給食糧の三倍値上げを指令した。このため、14歳以上の島民の実に99.8%が本土復帰を求めて署名し、集団断食など命懸けの運動を展開。それに折れる形で、ダレス米国務長官が1953年8月に奄美大島の返還を表明し、ようやく同年12月に日本復帰が実現した。

「奄振」で2兆円超投入、インフラは整備したが...

 日本復帰を果たしたものの、当時の奄美大島は疲弊・荒廃しており、戦後復興が進む本土との経済格差が著しく開いていた。このため、国は1954年に奄美群島復興特別措置法を制定し、奄美地域と本土の格差是正に乗り出す。5年間の時限措置だったが、延長に次ぐ延長で今に至っている(現在は奄美群島振興開発特別措置法=奄振)。この奄振に基づいて、奄美群島には公共事業に対する国の補助率かさ上げや税制上の優遇措置などが講じられ、これまでに2兆円以上が投入された。

 おかげで空港や道路、港湾などのインフラ整備が急速に進んだ。1972(昭和47)年に沖縄が本土復帰するまでは、奄美群島が事実上の「日本最南端」観光地だった。ベテランのタクシー運転手に聞くと、「関西方面から新婚旅行客などが詰め掛け、昭和40年代が最も忙しかった」と懐かしそうに振り返った。

 ところが、奄振は強烈な副作用をもたらした。奄美群島で日刊紙を発行している南海日日新聞社の松井輝美・常務取締役編集局長は次のように指摘する。「島民が奄振に慣れ切ってしまい、補助金で食いつなぐ経済になってしまった。しかし、どんなに補助金を投じても伝統産業は衰退する一方で、新たな地場産業が興らない。若者は島外に職を求め、人口流出に歯止めが掛からなくなった」―

創刊70周年の南海日日新聞社

 伝統産業の大黒柱が、1300年余の歴史を誇る高級絹織物の大島紬(おおしまつむぎ)。だが、着物文化の衰退や安価な輸入紬の流入に伴い、壊滅的な打撃を被った。大島紬の生産額は1980年に286億円を記録したが、今では数億円でしかない。

 本土復帰当時に20万人を超えていた奄美群島全体の人口も現在、12万人を割り込んでいる。奄美市名瀬末広町の永田橋市場-。軒先で島ラッキョウの皮を剥きながら、泰多江さん(89)は「昔はここも活気があったんだよ。でもね、若い人が島から出て行ってしまい、人通りがなくなっちゃった...」-

永田橋市場を守り続ける泰多江さん(右)と小俣菊栄さん(左)

高級絹織物の大島紬

 奄美では公共事業に対する国の補助率が手厚いとはいえ、地元自治体は一定額を負担しなくてはならない。インフラ完成後は、補修費用の負担も重く圧し掛かってくる。その結果、自治体の借金が増えて財政は著しく悪化し、マスコミは奄美市を「(財政破綻した)第二の北海道夕張市」と形容した。奄美大島の支配者は琉球王国、薩摩藩、米軍と移り変わり、日本復帰後も「補助金で『霞が関』に支配されてきた」(鹿児島県地方自治研究所「奄美戦後史」南方新社)という指摘もある。

元々、奄美大島(本島)は名瀬市、笠利町、住用村、龍郷町、瀬戸内町、大和村、宇検村の1市3町3村に区分されていた。このため、国は「平成の大合併」で再編を促した。しかし、町や村の名前が消えることには激しい抵抗もあり、紆余曲折を経て結局、名瀬市、笠利町、住用村だけで飛び地合併し、2006年に奄美市が誕生した。

 旧1市1町1村の起債残高は2006年度の561億円から、2014年度は505億円まで9%減少。職員数も2006年度の714人から、2015年度は16%減の602人にスリム化した。「痛み」を乗り越えて、合併が行政コストの削減効果をもたらしたことは間違いない。その一方で、総人口は合併時の約4.8万人から10年間で一割強減っており、人口減少には歯止めが掛かっていない。

奄美市名瀬地区の中心商店街

 奄美地域の今年4月の有効求人倍率は0.69倍であり、職を求める100人に対して69人分の仕事しか提供されていない。東京の2.02倍、全国平均の1.34倍に遠く及ばす、鹿児島県全体の0.97倍とも大きな格差が生じている。雇用創出は喫緊の課題だが、即効薬は見当たらない。

再来年、世界自然遺産への登録を目指す

 しかし今、奄美大島の前途に一筋の光が差し込み始めた。二年後の「奄美・琉球地域」の世界自然遺産登録への期待が高まり、官民一体となって運動を展開しているのだ。

 奄美大島では1970年代、世界最大級の石油精製工場の建設計画が持ち上がったが、地元の反対運動で頓挫した。また、沖縄のような大規模なリゾート開発も諸般の事情で進んでいない。結果的に太古からの貴重な自然が維持され、世界自然遺産登録が視野に入ってきたというわけだ。

 アマミノクロウサギやルリカケスなど、この地域にしか生息していない希少動物が長年、人間と共生してきた。国内第二位の面積を誇るマングローブ原生林や、シダの一種である巨大なヒカゲヘゴの原生林が広がり、そのスケールは見る者を圧倒する。ハブは危険な存在だが、そのおかげで山間部の乱開発が阻止されてきた側面もあり、まるでブロッコリーのように密度の高い森林が島を埋め尽くす。また、奄美大島は太平洋と東シナ海に挟まれ、海の幸も非常に豊かだ。「東洋のガラパゴス」という看板通りに、「生物多様性」が見事なまでに維持されている 。

防風林としても役立つ観葉植物「アダン」

マングローブの原生林

ヒカゲヘゴの原生林

 奄美市役所で朝山毅市長にインタビューすると、島の再生策を熱っぽく語ってくれた。「大きな資本が入り、山を削って海を汚すという開発ではいけない。太古からの自然と現実の生活の調和を図りながら、(大規模リゾート開発が主体の)沖縄とは似て非なる奄美オンリーの観光政策を推進していきたい。本土の若い人からたびたび 、『奄美大島は沖縄県じゃないの?』と言われるから、認知度も上げていかないと...」―

奄美市の朝山毅市長

世界自然遺産登録を目指す奄美市役所 

しかし①については、大島紬に代わる「四番打者」がなかなか見つからない。それでも、若い世代の中にチャレンジ精神が生まれてきた。例えば、大島紬を取り扱う老舗呉服店の三代目、川畑裕徳さん(38)は大島紬と皮革細工の「融合」に取り組み、財布やアクセサリーなどの企画・製作・販売を独りでこなす。

 川畑さんは奄美市内の高校卒業後、上京して自動車メーカーに就職。だがそれに飽き足らず、退職してオートバイで日本列島を走破した。さらにビル解体作業などでお金を貯め、働きながらオーストラリアを周遊。ある日、先住民族が伝統楽器とドラム、ベースなどの現代楽器をコラボレーションさせ、全く新たな音楽を創り出す光景に出くわす。「これだ!」―。川畑さんは奄美市の実家に戻り、大島紬+皮革細工の専門店「かすり」(奄美市名瀬港町)を起業した。

 毎年、奄美市内の高校を卒業する400~500人のうち、ほとんどが就職・進学のため島から出て行く。その際、川畑さんの店で故郷の香りの漂う品を手に入れ、新天地へ旅立つ若者が少なくない。「おかげ様で開業前の予想より、売り上げは伸びている。将来は従業員を雇えるようになり、Uターン就職を希望する若者に職場を提供したい」と張り切っている。

「大島紬+皮革」コラボに取り組む川畑裕徳さん(奄美市名瀬港町の「かすり」)

シマを元気に!「奄美オンリー」の街づくりを

大切に守り続けてきた「生物多様性」によって、世界自然遺産という"配当"を受け取ることができれば、奄美大島は飛躍を遂げるに違いない。だが島を取材して歩くと、動植物だけでなく、人間の「多様性」も大事にしてきた文化の重みを強く感じる。

 奄美大島では、島内に点在する集落を「シマ」と呼ぶ。南海日日新聞の松井氏は「シマは三方を山で囲まれ、逃げ道が海しかない。そういう厳しい制約条件が、独自の文化を育んできた」と解説する。島唄は実はシマ唄であり、奄美が発祥である。集落ごとに独自の方言や音階で受け継がれ、庶民の喜怒哀楽が巧みに込められている。

奄美大島に点在するシマ(集落)

 シマは「ミニ国家」であり、「天然のコンパクトシティ」と言って良いかもしれない。朝山市長も「シマが違うと、言葉は東京弁と関西弁ぐらい違うこともある」と言う。実際、筆者の利用したタクシー運転手は言葉遣いから、通りがかりのお婆ちゃんが同じシマ出身だと分かり、手を取り合って喜んでいた。

 前述したように奄美市は10年前に名瀬市、笠利町、住用村が飛び地合併して誕生したが、朝山市長は「それぞれの集落の文化や伝統、風習や行事は守り抜いていく」と強調する。奄美市は今、「1集落1ブランド」事業を展開し、シマを元気にしようと努めている。

 大量生産第一の高度成長期は画一性が要求され、それによってハードパワーの生産性向上が最大目標とされてきた。しかし、ポスト工業化社会ではソフトパワーが主役になり、多様性が創り出す価値こそが生命線になる。シマという多様性によって活力を維持できれば、この地域は生き残っていけるはず。今後、「奄美オンリー」の街づくりを大いに期待したい。

東シナ海に沈む夕日

【参考文献】
・麓純雄「奄美の歴史入門」南方新社
・鹿児島県地方自治研究所「奄美戦後史」南方新社
・名瀬(現奄美)市立奄美博物館「奄美博物館展示図録」
・奄美市企画調整課「奄美市市勢要覧2016」など
(写真)筆者 PENTAX K-S2 使用

中野 哲也

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※この記事は、2016年7月1日に発行されたHeadlineに掲載されたものを、個別に記事として掲載しています。

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