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3.11復興支援を続ける都内の居酒屋

=新型ウイルスと戦う「はまどおり」店主=

2020年06月10日

新型ウイルス

研究員
間藤 直哉

 新型コロナウイルスが世界恐慌以来といわれる経済危機をもたらし、人々の生活は厳しい状況に陥った。その一方で、2011年3月11日に発生した東日本大震災の傷は未だ癒(い)えていない。今、わたしたちは「見えない敵」と戦いながら、9年前の教訓も風化させてはならないと思う。

 東日本大震災の巨大津波で致命的な打撃を受けた地域の1つが、福島県太平洋岸の「浜通り」地方だ。その海沿いで稼働していた、東京電力の福島第1原子力発電所でメルトダウン(炉心溶融)が発生。白煙を吹き上げた原発の惨状は、3.11翌日からテレビやインターネットで流され続けた。

 「この先何が起きるのか、どうなっていくのか。日本の技術を総結集して乗り切れないものか...」―。当時の筆者の頭の中では、いろいろなことがよぎった。とはいえ恥ずかしながら、東京での自分の生活、例えば停電や断水の心配が先だった。被災地住民の恐怖や、原発事故で命懸けの戦いを余儀なくされた人々の困難には思いが至らなかった。

 それから9年―。2020年2月、映画「FUKUSHIMA 50」(監督・若松節朗、主演・佐藤浩市)の試写会で、3.11の浜通りで起きていた壮絶な戦いを知ると同時に、自宅近くの居酒屋「はまどおり」(東京都調布市)を思い出した。その名の通り、福島県から新鮮な海山の幸や銘酒を仕入れ、地元では知る人ぞ知る居酒屋である。

写真住宅街の一角で繁盛する居酒屋「はまどおり」

 2018年夏、筆者は店主の田中和人さん(57歳)と縁あって話をする機会があり、彼の「はまどおり」を訪れた。店に入ると、小さな文字で控えめに書かれていた「復興支援」が目に留まる。聞くと、田中さんは「毎週月曜日を福島応援Dayとして、売り上げの一部を復興支援のために寄付しています」という。「復興支援」の4文字と田中さんの温和な人柄に興味を抱いた。

 筆者は月に何度かお店に通うようになり、料理と酒を楽しんでいる。いつしか、田中さんの手の空いている時に、店を始めた経緯や浜通り地方への想いを聴くようになった。

写真店主の田中和人さん

 実は、田中さんは元々、東京電力のグループ会社に勤めていた。3.11当日も都内でインターネット関連の仕事をしていたが、原発事故のニュースを知ると、居ても立っても居られなくなる。原発周辺の地域では住民避難が始まり、被災者の苦境が連日報じられたからだ。

 田中さんは決心し、長期休暇を取得して南相馬市のボランティアセンターを訪問。まず1カ月間、その後も2~3カ月おきに、地元ボランティアと一緒に汗を流した。被災者は自分も辛い状況に置かれているのに、困っている人に寄り添う。まだまだ遊びたい盛りの若者がお年寄りに優しく声を掛ける。そういう光景を連日、目の当たりにすると、東京出身の田中さんはいつしか「福島県の人を好きになり、福島県が大好きになっていた」―。一方で、原発事故を起こした企業グループに働く者として、「申し訳ない」という気持ちも日に日に募っていく。

 そして、田中さんは「残りの人生を3.11復興のために捧げたい」と考え、2013年9月に会社を早期退職した。「福島県のために何ができるか。どんなことが役に立つのか」と検討を重ねた。その結果、過去に経験のある飲食店を開き、福島県内の食材と酒を提供しながら、売り上げの一部を支援金として寄付することを決めた。そして2014年5月21日、居酒屋「はまどおり」をオープンしたのだ。

 店の売り物は、都内では珍しい福島県のソウルフード。例えば、田中さんは田村市の夏祭りで味わった岩魚(イワナ)の塩焼きに惚れ込み、養殖業者にコンタクトを取って仕入れを始めた。今では看板メニューの1つである。ランチでたくさん使う米は、元東電社員が福島県の営農支援を目的として立ち上げたNPO法人から仕入れる。

 田中さんは福島県でのたくさんの出会いを通じ、調達する食材の幅を広げ、メニューも増やした。被災者の食材を使い、復興を支援するという目的は徐々に達成され、寄付も続けた。そんな努力が認められ、2017年1月には南相馬市社会福祉協議会から感謝状を贈られた。

写真南相馬市社会福祉協議会から贈られた感謝状

 このように、当初の想いを順調に実現してきた田中さん。だが2020年3月以降、他の飲食店と同じくかつてない苦境に立たされた。政府が4月7日に発令した緊急事態宣言に伴い、店が営業自粛を余儀なくされたのだ。

 「席数を絞り、お客様が帰るたびに消毒し、一度使った席はその日は使用しません。こうした感染予防を徹底しながら、ランチ営業は何とか継続しました」―。夜はというと、テイクアウト向けの弁当と晩酌用おつまみの販売に絞り込み、工夫してやりくりしたが、赤字を減らすのが精一杯...。一方、店の常連は田中さんの3.11復興への想いをリスペクトしており、「少しでも力になれれば」と弁当やおつまみを買いに来てくれた。

写真夜のテイクアウトメニュー

 福島県の人々も店のことを案じ、「大丈夫ですか」などと頻繁に連絡をくれた。「農家のおばあちゃんが野菜を送ってくれて...」と目を赤くする田中さん。「復興を支援している自分が、逆に支えてもらうとは。やっぱり福島が好きだ」―。

 5月25日、緊急事態宣言が全面解除され、田中さんも「新しい生活様式」で日常を取り戻し始めた。新型ウイルスの感染予防に万全を期す一方で、復興支援もこれまでと変わらず続ける。3.11の教訓を後世に残すためにも、田中さんのような粘り強い取り組みが大切ではないか。地元にこうした店があることを誇りに思う。

(写真)筆者
PENTAX K-70

間藤 直哉

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