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結党100年を迎える中国共産党

=その誕生と発展、変質の軌跡=

2021年04月15日

中国・アジア

主任研究員
武重 直人

 中国共産党(以下「共産党」)は2021年7月、結党100年を迎える。事実上の一党独裁による指導体制の下、中国は世界第2位の経済大国にのし上がった。今や党員9200万人を抱える共産党が、どのように誕生・発展し、また変質してきたのか。本稿では①結党・揺籃期②中華人民共和国建国〜文化大革命期③改革開放期―の3つの時代に分け、その歩みを振り返る。

写真中国共産党の結党大会が開かれたアパート
(出所)空之境界

1.共産党結党・揺籃期(1912~1949年)

図表(出所)筆者

 1921年7月、共産党は上海で誕生した。国際共産主義運動の指導組織「コミンテルン」が、中国各地で勃興していた共産主義シンパの結集を呼び掛け、それに呼応したものだ。日本や欧州の列強が中国を半植民地化する一方で、清朝崩壊後に各地の軍閥が群雄割拠。孫文の率いる国民党がその制圧を目指していた時期である。

 その4年前の1917年にロシア革命が起こり、共産主義に中国の多くの若者が傾倒した。第一次世界大戦後の処理で、中国が列強から屈辱的な待遇を受けたからだ。1919年、反帝国主義を掲げた「五・四運動」が展開され、中国初の全国的なナショナリズムの発露となる。

 この運動の最前線にいたのが、西洋思想を紹介した北京大学教授の陳独秀や、同僚の李大釗(リ・ダイショウ)、同大学図書館司書を務めていた毛沢東らである。彼らが共産党結党に当たり重要な役割を果たした。

写真(出所)Wikimedia Commons

 実は共産党の結党・揺籃期には、日本が非常に深く関わっている。結党メンバーは日本のマルクス主義者を通じて共産主義思想を吸収していたからだ。当時、西洋の思想・科学を吸収するため、陳独秀や李大釗をはじめ日本に留学した若者は少なくない。一足先に近代化に踏み出した日本には既に、西洋の主要文献の翻訳が存在し、漢字を含む日本語訳は中国人にとって効率よい教材になったのだ。

 西洋近代思想を紹介した「青年雑誌」(後の「新青年」)を創刊し、啓蒙運動の旗手となった陳独秀は成城学校(当時の陸軍予備学校、現成城高校)、李大釗は早稲田大学にそれぞれ留学。また、上海の結党集会に自宅を提供した李漢俊は東京帝国大学(現東京大学)で学んだ。

 マルクス主義については日本の経済学者・河上肇らの影響を強く受け、李大釗らは「新青年」に河上の著作の一部をほぼそのまま掲載した。「共産主義」や「革命」といった中国語も実は、西洋思想の概念の日本語訳を彼らがそのまま転用したものだ。

 結党後の内戦期、共産党が軍事的危機を乗り切った際にも、日本が深く関与した。1930年代に国民党は共産党の掃討作戦を展開。当時、共産党が革命根拠地としていた江西省から敗走させ、壊滅寸前にまで追い詰めた。

 しかし1936年、国民党の配下にあった軍閥の張学良が、共産党と停戦して抗日の統一戦線を組むよう、国民党政府トップの蒋介石に要求。彼を監禁(=西安事件)し、協力(=第二次国共合作)を模索する。

 この第二次国共合作は当初、国民党の共産党に対する不信から遅々として進まなかった。だが、1937年に日本軍が盧溝橋事件を起こして日中戦争に突入すると、国民党の危機感は一気に高まる。そして共産党軍は国民党軍の一部に編入され、国民党の掃討作戦から免れたのだ。

 それにとどまらず、共産党は米国の援助まで引き出した。1941年の日本軍による真珠湾攻撃を機に、それまで国民党に軍事援助を実施していたフランクリン・ルーズベルト米大統領が共産党への支援も始めたのだ。

 日中の戦火が激しくなる一方で、共産党は権謀術数をめぐらせる。抗日戦争において、国民党軍と日本軍が直接衝突するよう仕向け、自らは後方に退いて力を蓄えた。日本軍の力を利用しながら、自分より強い国民党軍の力を削ぐという実にしたたかな戦術だ。

 1945年に第二次世界大戦が終結すると、共産党と国民党との第二次国共合作は解消され、中国は再び内戦状態に陥る。共産党はソ連から援助を受け、国民党に攻勢を掛ける。そしてついに支配権を奪うと、1949年に中華人民共和国の建国を宣言。当初は国民党に対して絶対的劣勢にあった共産党が、かくして国家権力を奪取した。

2.建国~文化大革命期(1949~1978年)

図表(出所)筆者

 中華人民共和国建国~文化大革命の時代を要約すると、共産主義化を急速に進めようとする毛沢東と、現実に即して経済の効率を高めようとする劉少奇・鄧小平らの対立といえる。前者は「紅」路線と称され、党の指導による一般大衆の政治動員を重視し、すべての人が本業にも政治活動にも従事するよう求める。

写真毛沢東と対立した劉少奇
(出所)Wikimedia Commons

 これに対して後者は「専」路線と呼ばれ、生産性を重視。さまざまな分野の専門性を重んじ、分業社会を志向するため、奨励金や経済格差などの資本主義的要素も認める。

 毛沢東は建国当初、資本主義的要素をある程度認めていた。政府の重要ポストを共産党以外の他党にも配分するほか、私企業の長期的な存続を標榜したのだ。ところが、ほどなくして、共産党支配や企業公有化による経済の社会主義的改造に舵を切り、その先にある共産主義化を目指した。

 例えば、農村では地主から土地を取り上げる「土地改革」を推進し、建国3年間で地主や反革命分子200万人を処刑したとされる。都市では民間企業の公有化を急速に進め、建国時に工業生産額の6割近くを占めた民間部門は1956年にゼロとなる。

 その毛沢東に対し、モスクワから猛烈な逆風が吹き始める。いわゆる「スターリン批判」である。1956年、スターリン没後初のソ連共産党大会において、後継者のフルシチョフ第一書記が、スターリン時代の粛清や個人崇拝、暴力革命への固執を厳しく批判したのだ。

 毛沢東はスターリン批判が毛沢東否定論につながる事態を恐れた。共産党はフルシチョフを「修正主義者」と断罪し、長期にわたる激しい中ソ論争を巻き起こした。それでも毛沢東は、スターリン批判が中国に飛び火する不安を払拭できない。ガス抜きの意図もあったのか、民主化も試みる。1957年、知識人に向けて党と政府への意見を表明するよう呼び掛けたのだ(=百花斉放・百家争鳴)。

 ところがそれによって党批判が新聞紙上に百出してしまい、共産党に下野を求める論調まで現れた。事態に驚いた毛沢東は党批判者を「右派」として反撃開始。1958年だけで55万人を粛清したとされる。

 反右派闘争は「大躍進運動」へとつながっていく。これは、毛沢東主導で1958~1960年にかけて試みられた共産主義化の運動を指す。ソ連をモデルとする重工業中心の第一次五カ年計画(1953~1957年)を改め、農業や軽工業も同時発展させる中国独自モデルを掲げたのだ。

 それは大衆の動員を特徴とし、農村に人民公社を建設して共同生活を事実上強制するなど、共産主義社会の到来を予感させた。ソ連に対抗して毛沢東は「主要な農・工業の生産で英国を15年で上回る」という方針を示し、この過大な目標を達成するため民衆を大量動員した。

 この過程であらわになったのが数々の矛盾だ。例えば農村では、農作物を食い荒らすスズメを害鳥として一斉駆除が行われた。その結果、スズメを天敵とする害虫が大量発生し、農業に深刻な被害をもたらす。工業では鉄鋼を無理やり増産するため、大衆が手造り炉で製鉄を試みるが、その6割が使いものにならなかったという。農具も製鉄の原料となり、燃料として樹木を大量伐採したため、農業生産は壊滅的に落ち込んだ。

 その結果として発生したのが、1500万人とも4000万人ともいわれる餓死者である。この責任を取る形で、毛沢東は国家主席を退いた(ただし、共産党主席は維持)。

 写真 躍進運動期の手造り炉
(出所)Wikimedia Commons

 大躍進運動の悲惨な後始末を担ったのが、代わって国家主席に就いた劉少奇とその懐刀の鄧小平らだ。1961〜1965年に「調整経済」を導入し、農業増産などを柱とした緊急措置に踏み切る。以後、市場メカニズムの導入や、効率性の追求に軸足を移していく。利潤指標の重視や出来高制・奨励金制度の導入など物質的な刺激策を多用した。

 これに対し、毛沢東は「資本主義的な修正主義」と断じて危険視し、劉少奇らに「走資派」のレッテルを貼る。毛沢東は攻勢を強め、1966年に学術や文芸、メディアにおける反社会主義的人物を排除するよう、また党・政府内でも同様の人物を洗い出すよう、指令(=五・一六通知)を発出した。

 「文化大革命(文革)」と呼ばれたこの政治運動は、すぐに権力闘争という本性をさらけ出す。毛沢東を熱狂的に支持する若者「紅衛兵」によって、中央・地方の党幹部は吊るし上げられる。ある者は殺され、ある者は労働改造所に送られた。毛沢東の最大の政敵だった劉少奇も、監禁中に命を落とす。文革期の死者は40万人に上るとも。共産党の官僚組織は秩序と機能を失い、毛沢東と大衆が直接つながる形が出来上がる。毛思想に共鳴する大衆と党幹部、軍が「革命委員会」を全国各地で組織し、権力構造を確立したのだ。

3.改革開放期〜(1978年〜)

 図表 (出所)筆者

 文革は1976年、毛沢東の死を機に終焉に向かい、取り巻きの毛沢東夫人・江青ら「四人組」も排除された。その後、失脚から復活した鄧小平が党有力幹部の支持を取りつけ、毛路線継承者の華国鋒を国家主席の座から追い落とした。

 1978年、鄧小平は改革開放路線を決定。毛沢東が理想として追求した共産主義化を捨て、市場を中心とする西側の経済発展原理を導入した。鄧小平の実利主義は、「黒いネコでも白いネコでもネズミを捕るのが良いネコだ」「発展こそが揺るがぬ道理」という言葉に象徴される。

 鄧小平の真骨頂は、1989年に起こった天安門事件後の舵取りだ。民主化運動に対する武力制圧に国際世論が非難を浴びせ、改革開放は頓挫したかに見えた。ところが鄧小平は1992年、保守派が手薄の南部において、改革開放の再加速を目的に演説いわゆる南巡講話を立て続けに行う。これによって中国に私企業が復活し、経済は急速に拡大し始めた。

 改革開放以降の中国は、資本主義を軸とする世界市場に参入し、共産党はその正当化に腐心する。それまでの党による指導との辻褄(つじつま)合わせや、党による支配の正当化を迫られたからだ。

 その1つが、1981年以降用いられる「社会主義初級段階論」。中国の社会主義はまだ資本主義的要素を残す初級段階に過ぎないから、まずはその段階を踏んで発展する必要があり、共産主義社会への移行は相当先になるという考え方だ。

 私企業が重要な役割を果たすようになった現実を踏まえ、江沢民が2000年に提示した「3つの代表」にも同じ意図が込められる。共産党が労働者階級のみを代表する政党から脱し、①中国の先進的な社会生産力の発展の要求②中国の先進文化の前進の方向③中国の最も幅広い人民の根本的利益―をそれぞれ代表することを宣言したのだ。

 つまり、かつて排除した資本家をも取り込む政党であることを公式に容認したのだ。江沢民は世界貿易機関(WTO)加盟を決断し、西側諸国との距離を一気に縮めた。

 共産党最高権力者すなわち党総書記のバトンは江沢民から胡錦濤を経て、2012年に現在の習近平に受け継がれた。習近平は鄧小平以降の西側に歩み寄る路線に修正を加え、一部には毛沢東時代への回帰も見られる。

 例えば、習近平が就任早々、政敵を一掃のために断行した「虎も蝿(はえ)も叩く」という腐敗一掃運動は、大胆かつ大規模な権力闘争。同様の目的で毛沢東が展開した腐敗摘発・政敵排除を彷彿(ほうふつ)とさせる。

 また、毛沢東時代の個人崇拝・独裁が中国経済に深刻な歪みをもたらした反省から、鄧小平は改革開放期に集団指導体制や権力の制度的移行を確立した。

 にもかかわらず、習近平はその一部を踏襲することなく、個人崇拝につながるような党キャンペーンをあえて展開し、国家主席の任期制限(2期10年)も撤廃した。外交政策でもトランプ前米政権との対立激化以降、強硬姿勢も辞さない「戦狼外交」を駆使する。

 共産党100年を振り返ると、それは変質を繰り返す歴史である。その主な要因は党内の権力闘争だ。習近平政権も決して盤石とは言えず、いつ抗争が再燃しても不思議ではない。

 ただし、過去と決定的に異なるのは、中国が米国に次ぐ大国にのし上がり、地球全体を揺るがすパワーを身に付けたことだ。その中国が再び党内抗争に明け暮れる事態になれば、世界の安全・安心は確保できない。今回、筆者は習政権を改革開放期に位置付けたが、後世の歴史家は「改革開放の停滞・混乱期」と定義するかもしれない。

写真党幹部が吊るし上げられた文化大革命期
(出所)Wikimedia Commons

武重 直人

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※この記事は、2021年3月31日発行のHeadLineに掲載されました。

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